せねばならぬとは論理上よりは[#「論理上よりは」に丸傍点]言へぬ。
 尤も、第一の禍惡觀にしても、其一旦禍惡に服從し、禍惡をあきらめたる結果として[#「結果として」に丸傍点]、精神の均衡平和を得、或は歡喜の情を起すことあるべきは前にも述べた通りでありますけれども、歡喜の情を以て[#「歡喜の情を以て」に丸傍点]禍惡に對すると、受動的に禍惡をあきらめたる結果として歡喜の情を起す[#「結果として歡喜の情を起す」に丸傍点]とは大に趣きを異にして居ると言はねばなりません。
 スピノーザ[#「スピノーザ」に傍線]も亦徹頭徹尾目的論を否定した學者であつて、而かも一方に於ては第三の禍惡觀を取つた人であります。氏の本体は徹頭徹尾無規定のものであつて、毫も『善』といふ着色を帶びて居らぬものでありますが、而かも結末に行くといふと、所謂『神の知的愛』といふことを言つて居る。但し、氏は、其所謂『知的の愛』といふものは通常の愛とは異なるものであつて、唯、一切の事象は神の必然の變態として起るものであるといふことを明むるにあるといふことを、再三、再四、反復して言つては居りますけれども、單に知的の面よりして一切の事象の已むべからざることを知つたからといつて、歡喜の情を以て[#「歡喜の情を以て」に丸傍点]之に服從することが出來るや否やは疑問である。少くとも其間に論理上の關係のないことは前に述べた通りであります。已むを得ざることなれば必ず willingly に服從せねばならぬといふ理窟[#「理窟」に丸傍点]はない。等しく服從するとしても、willingly に服從することもあれば、reluctantly に服從することもある。スピノーザ[#「スピノーザ」に傍線]の本体の觀念と『神の知的愛』との間には矛盾はないとしたところが、乍併又論理上の必然の關係もないと言はねばなりません。勿論『愛』といふ語を、唯、云々の事を知り明める[#「知り明める」に丸傍点]といふ意に使つたとすれば、差支はないが、乍併、此の如き『愛』は所詮非心理的であることを免れません。若し之を以て『神の知的愛』と言ふことが出來るとすれば、今日の自然科學者は悉く此境界に到達して居ると言つても差支ないのであります。而して言論の上[#「言論の上」に丸傍点]のみのスピノーザ[#「スピノーザ」に傍線]を見ずして其全人格[#「全人格」に丸傍点]を見る時は、氏が体達して居つた『知的愛』も亦决して此の如きものではありません。氏が其哲學上の汎神論の立脚地よりして、成立宗教[#「成立宗教」に白丸傍点]の人格神の觀念を排斥し、成立宗教[#「成立宗教」に白丸傍点]の所謂『神の愛』を否定し、祈祷を聽き因果律を左右するといふ樣な擬人神の觀念を打破したのは非常の効績と言はねばなりません。是れ即ち氏が知の方面の偉大なるを示すものであります。乍併、此汎神論と『神の知的愛』との間には論理的の必然の關係[#「論理的の必然の關係」に丸傍点]は無い。氏は純粹なる學理[#「學理」に丸傍点]の一方よりして、其本体を何等の規定も着色もなきもの[#「何等の規定も着色もなきもの」に傍点]としながら、而かも一方に於ては情性[#「情性」に丸傍点]の要求よりしては、不知不識の間に『善[#「善」に丸傍点]』といふ着色を與へて居るものと言はねばなりません。少くとも、本体に[#「本体に」に二重丸傍点]『善[#「善」に二重丸傍点]』といふ着色を與へなければ[#「といふ着色を與へなければ」に二重丸傍点]、其本体論の後件として[#「其本体論の後件として」に丸傍点]氏の禍惡觀は出て來ぬ[#「氏の禍惡觀は出て來ぬ」に二重丸傍点]と言つて宜しいのであります。而かも、此論理的の關係の無い處に[#「此論理的の關係の無い處に」に白丸傍点]『神の知的愛[#「神の知的愛」に白丸傍点]』を唱ふるところが又氏の人格の偉大なる所以であります[#「を唱ふるところが又氏の人格の偉大なる所以であります」に白丸傍点]。若し是れが無つたならば、氏は單に一個の學者としてえらいのみであつて、完全な人としてえらいとは言はれません。此點は實に、氏が單に知性の人として卓越な學者であるのみならず、情性の人として卓越して居ることを示すものであらうと思ふのであります。
 以上は、單に宇宙觀の性質上より言へば論理上[#「論理上」に丸傍点]决して第一の禍惡觀以上に出ることの出來ぬものが、不知不識の裡に第三の禍惡觀を取れるものゝ例でありますが、又其宇宙觀の性質上より言つて[#「其宇宙觀の性質上より言つて」に白丸傍点]第三の禍惡觀とよく契合して居るものもあります。是れは即ち、知[#「知」に二重丸傍点]の要求に基ける實在[#「實在」に丸傍点]の觀念と情性[#「情性」に二重丸傍点]の要求に基ける『善[#「善」に丸傍点]』の觀念とを一緒にしたものであつて、プラトーン[#「プラトーン」に傍線]の世界觀などは即ち其一例であります(但しプラトーン[#「プラトーン」に傍線]自身は現實界と實在界とを峻別した結果として第三の禍惡觀を取つては居らぬけれども)。一切の事象は『善』の觀念に規定されて居るといつて初めて歡喜の念を以て[#「歡喜の念を以て」に丸傍点]之に服從せねばならぬといふことが起るのである。此塲合に於ては、實在其物が、デーモクリトス[#「デーモクリトス」に傍線]の原子の樣に瞽盲的のものでなく、又スピノーザ[#「スピノーザ」に傍線]の本体の樣に無色無規定のものでなく、『善』といふ目的論的の着色を帶びて居るのであるから、我々と實在との間に人格的の關係(但し、前に述べた成立宗教の所謂人格的の關係とは異なる)が成立つて、一切の事象を歡喜の情を以て迎へねばならぬといふことが起るのであります。
 次に第二の禍惡觀と契合する世界觀の例を擧ぐれば、ハルトマン[#「ハルトマン」に傍線]氏の世界觀は其適例であります。即ち、宇宙其物が贖罪の過程に於てあるのである。此過程が終局に歸せざる間は禍惡は决して根絶するものではない。夫れで我々は出來るだけ苦を冒[#「冒」に丸傍点]し、禍惡と健鬪[#「健鬪」に丸傍点]し、宇宙の贖罪に出來るだけの貢献をなさなければならん。是れが我々の本務である。苦は苦であるけれども解脱の道行きには避くべからざる嶮路であるから、勇を皷して之を越えねばならぬと言ふのであります。即ち第三とは異なつて、禍惡は飽くまでも禍惡と見て[#「禍惡は飽くまでも禍惡と見て」に丸傍点]、決して禍惡其物を美觀樂觀するものではありません。禍惡としての[#「禍惡としての」に丸傍点]禍惡[#「禍惡」に白丸傍点]を認め、而して此禍惡と戰ひ禍惡を冒すを以て本務と心得ねばならぬといふのであります。
 要するに、第一の禍惡觀は非目的論的によつても立つことが出來るけれども、第二、第三の禍惡觀は目的論的の宇宙觀の上でなければ立つことは出來ぬ。而して、等しく目的論的宇宙觀にしても、第二の禍惡觀は實在の觀念と『美』の觀念とを直接に[#「直接に」に丸傍点]一緒にせずして、實在を進化的[#「進化的」に白丸傍点]、發展的[#「發展的」に白丸傍点]に見たる世界、從つて、一切の事象は其儘美[#「其儘美」に丸傍点]ではないけれども美に對して何等かの旨趣を有して居る[#「美に對して何等かの旨趣を有して居る」に丸傍点]といふ世界觀とよく契合し、第三の禍惡觀は、直接に實在の觀念と『美』の觀念とを一緒にしたる世界觀、從つて一切の事象は其儘美である[#「其儘美である」に丸傍点]となすことの出來る世界觀とよく契合するのであります。
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もう少し精しく書きたかつたのですけれども、家族に半病人がある上に下婢が病氣で自宅に皈るといふ始末で、炊事の手傳ひなどゝいふ小禍惡と健鬪最中で、さらでだにまはらぬ筆がまはりません。機會があつた節、同じ題目でもう少し精しく論ずることが出來るだろうと思つて居ります。
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[#地から1字上げ](明治三十五年十一〜十二月「精神界」第二卷一一〜一二號)



底本:「明治文學全集 80 明治哲學思想集」筑摩書房
   1974(昭和49)年6月15日初版第1刷発行
   1989(平成元)年2月20日初版第5刷発行
初出:「精神界 第二卷一一、一二號」
   1902(明治35)年11、12月
※「場合」と「塲合」の混用は、底本のままとしました。
入力:岩澤秀紀
校正:川山隆
2008年5月21日作成
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