はあるが、先づ/\大目に看て置くより外はないといふのである。第二は、自分の主義と相容れぬものに對しては飽くまでも嚴肅の態度を取り、罪惡と健鬪するのである。第三は罪惡其物に一種の意義を認め、ユーモア的に罪惡を視るのである。
第一と第二とは、共に、惡は厭くまでも惡として視るのであつて、毫も之に意義を認むるものではない。此點に於ては兩者共に一致するのであります。併しながら、前者は受動的で後者は能動的である。前者は罪惡を看過し、後者は之を打破せんとするのであります。第一と第三とは、共に、惡に對して寛容の態度を取つて居る點に於ては同一であるけれども、前者は冷淡に寛容の態度を取り、後者は好意的に寛容の態度を取るのである。前者は reluctantly に罪惡を許し、後者は willingly に罪惡を許す。前者は罪惡に何等の意義をも認めて居らぬけれども、後者は之に何等かの意義を認めて居る。又、第二と第三とは、罪惡に對して無頓着の態度を取らぬといふ點に於ては一致して居るけれども、前者は敵愾心を以て之に對し、後者は同情を以て之に對する。前者は戰士として罪惡に對し、後者は慈母として之に對する。
偖て、苦及び惡(兩者を兼ねたる語を用うれば、禍惡、evil 或は 〔U:bel〕)に對する態度に上に擧げた樣な三種の類型があることを許しまして、此處に、宗教上哲學上などの偉人の性格や思想に矢張り各此類型を代表するものがあると思ふのであります。
三 三種の禍惡に該當する宇宙觀
前に述べたる禍惡に對する三種の態度を我々は、便宜上、順次に知的、意的、情的と呼んでよかろうと思ひます。
第一の禍惡觀は重もに學理的の徑路だけを履んで到達することが出來る。樂であれ、苦であれ、善であれ、惡であれ、一切の事象は避くべからざることであること、必然の理法によつて起るのであつて、悶へても、祈つても詮ないことであるといふことを悟れば足るのであります。此苦とか、樂とか、善とか、惡とかゞ、皆な何等かの意義を有して居るものであるといふ觀念と、從つて、我々は自ら進んで禍惡と戰ひ、苦を冒し(第二の禍惡觀)若くは、歡喜の情を以て禍惡其物を美觀樂觀せねばならぬ(第三の禍惡觀)といふ樣な觀念は無いのである。第一の禍惡觀は、宇宙秩序に目的[#「目的」に白丸傍点]といふものを認めずとも成立つものである、換言すれば純粹
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