の愛を疑ひ、天道の是非を疑ふて、人を怨み天地を恨むといふ樣なことは、時に人情避くべからざることではありますが、併しながら、是れは到底苦を脱する所以ではない。夫れで、我々は是れを因縁事とあきらめる、是れは第一である。一つ大奮發をやつて、息の續く限り、此貧苦、此不幸、此迫害と健鬪して見んとする、是れは第二である。尤も此場合では、苦と健鬪して苦の原因を絶つた時にも勿論苦を脱することが出來るのでありますけれども、此第二の場合は决して之を指すのではなくして、其健鬪の瞬間に於ける脱苦の状態を指すのであります。又、疏食を食ひ、水を飮み、肱を曲げて枕にす、樂亦其中に在りといふ風に、貧苦を美化し、或は、若し我配處に赴かずんば何を以てか邊鄙の群類を化せんと言つて、迫害を樂觀し、或は其中に一種の意義を認むる樣なのは第三である。
第一も第二も、畢竟、苦の避くべからざること、已むを得ざることを觀ずるといふ點に於ては同一であるけれども、前者は受動的であつて、後者は能動的である。前者は苦を因果と觀じ、後者は之を義務と觀ずる。尤も、此因果の觀念と義務の觀念とは、人により、場合により、明亮に意識上に現はれて居ることもあり、又は現はれて居らぬこともあるけれども。第一は、苦を因果と觀じ、自己は徹頭徹尾受動的の態度を取つて、全然苦に服從するのである。苦に服從するといへば、未だ苦を脱して居らぬ樣にも聞ゆるけれども、左樣ではない。苦なるものはもと精神の攪擾、不均衡に基くのであるから、此絶對的服從によつて我々の精神は平和と均衡とを囘復し、以て苦を脱することが出來るのであります。第二は、苦を義務と觀じ、自己は徹頭徹尾能動的の態度を取つて、思切つて此何れ果さゞるべからざる義務たる苦を果し、此苦と健鬪するのである。苦と健鬪するのであるから、未だ苦を脱し得ぬのである樣にも思はるゝが、决して左樣でない。凡ての活動には快樂を伴ふものであるから、此自己の能動的活動によつて起る快樂によつて苦に打勝ち、苦を征服することが出來、之に依て苦を脱することが出來るのである。第三に到ては、斯る受動若くは能動の道行きを經ずして、直接に苦若くは苦の對象其物を樂觀して苦を忘るゝのである。勿論此場合とても、其苦に逢着した刹那に於ては、苦であるには相違ない、けれども、上に述べた樣な手段によらずして其次の刹那には直ちに此苦若くは其對象を樂化してしま
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