觀上の主義の上に立つて居るのである。たとへ其主義なる者は必ずしも意識的に明確になりて居らぬまでも、兎に角有意無意の間に此主義に動かされて居ると言はなければならぬ。其處で、吾々は其の主義がドウいふ點までジャスティファイヤブルであるか、言換ふれば其主義中のドレ丈が眞純《ヂェニュイン》であつてドレ丈けが間違つて居るといふことを見なければならぬと思ふ。
自然主義の懷疑論が一切の概念的體系を排し、一切の規範、理想、價値を排するといふことの過當であることに付ては既に諸方面で論ぜられて居る。懷疑論者の論議其者が已に幾多の概念や矛盾律や三段論法やを道具に使つて居る。又懷疑論者の論議が已に何等かの理想や價値を認めて居る。現に、此排價値、排理想といふことを最鮮明に標榜して居る「太陽」の長谷川天溪氏[#「長谷川天溪氏」に傍点]などが、一切の價値を排しながら、吾々が極力排斥する者は僞善的生活である、内外表裏に矛盾ある生活であると公言して居る。これは即ち、内外表裏の矛盾なき生活、即ち統一ある生活といふ者に價値を置いて居るといふ證據である。「新小説」の後藤宙外氏[#「後藤宙外氏」に傍点]も矢張り此矛盾を指摘して居る。斯ういふ點は明白に懷疑論者の論理上の矛盾である。斯ういふ矛盾を指斥するといふことも無論自然主義論評の一方である。之によりて自然主義其者の議論の精錬を促し、其發展を進めるといふには非常に有効である。既に是までの經過に付て見ても、自然主義の論議は其初めに比ぶれば非常に精錬せられて、非常に純化されて來たと思ふ。併し、斯ういふ論議上の矛盾を指斥したのみで自然主義其者が直ちに破れたと見るは間違である。自然主義の論理上の體系――懷疑論者は斯ういふ言葉を嫌ふかも知れぬけれども――は之に由て一時破れるかも知れぬ。併し此論議上の體系の根底に存する動力は容易に消滅しない。
懷疑論者が無價値論を標榜しながら[#「懷疑論者が無價値論を標榜しながら」に傍点]、僞善を惡み[#「僞善を惡み」に傍点]、内外表裏の矛盾を醜とし[#「内外表裏の矛盾を醜とし」に傍点]、統一ある生活に價値を認むるといふのは慥かに論理上の矛盾である[#「統一ある生活に價値を認むるといふのは慥かに論理上の矛盾である」に傍点]。此矛盾は决して辯護することは出來ぬ。併し[#「併し」に傍点]、此矛盾の中に懷疑論者の意義が籠つて居ると思ふ[#「
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
朝永 三十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング