まの絵を見ました。けれども、この絵の実物を初めて見たときの感じほど深く私の心にほりこまれているものはあまりたくさんありません。そのむしろ陰鬱な重苦しい、しかもどことなくなつかしみのあるやわらかい色合いを私は今なお忘れることができない。その現実離れをしていかにも神経をいら立たせるようなふしぎな形と線とは理屈なしに私を引きつけたのです。私は今でもなおあの時の第一印象をありありと思い起こすことができます。
むろん私ごときものがどう思おうと、またよしんば天下の美術鑑賞家がいかに名画だということに一致しようとも、国家の風俗警察という目から見ればそこに必ずや独特の見解があるには違いありません。名画だから必ず絶対に風俗を壊乱しないとは限らないでしょう。名画を鑑賞するだけの能力をもたない低級な人間にとってはことにそうでしょう。私一個の考えでは「真の名画は絶対に風俗を壊乱することはない」と自信していますが、その考えを今ここで一般人に押しつけようとは思いません。
しかし、今ここで問題になっているこの「春」を見て、もしもこれをわいせつだとか風俗を壊乱するとか思う人があるとすれば、私といえどもまたその人の眼と頭とを疑わずにはいられません。この画は誰が見てもむしろさびしい感じのする画です。またかりに全く絵画に趣味のない人が見たとすればなんだか変てこな画だと思うだけのことでしょう。しかしもしも、これを見てわいせつだと思ったり、多少なり劣情を感ずる人があるとすれば、それはよほど低級なアブノーマルな人間に違いありません。したがってあの記事にあったように、もしも税関の役人が旅客の十分な説明にもかかわらず、なおこれを理解しないでむりむたいに没収してしまったのならば、彼はよほど下等な変態的な趣味と性欲との持ち主であったか、または特に何か悪意をもってしたことだと私は断定したいのです。
読者諸君はこの事件をもって一小下級官吏によってなされた些事なりとしてこれを軽々に付してはなりません。彼は一小下級官吏に違いありません。しかしこの具体的の事件について「国家」を代表したのは彼その人です。その以外の何者でもありません。外国から帰ってくる幾多の旅客がまず最初に接する「日本国」はすなわち彼です。そうしてその彼が旅客の携帯する「名画」のわいせつと否とを判断してその輸入の許否を決するのだと思えば、どうしてこの事件を一小事として軽視することができましょう。相手は「彼」一個人ではないのです。「国家」そのものです。この当該事件については「彼」の目、「彼」の頭がすなわち「国家」の目であり頭です。「役人の頭」を問題にしないで何としましょう。
四
「役人の頭」だからといってわれわれ人民の頭とたいして違うわけはありません。だいたい同じような境遇に育ち、同じような教育を受け、同じようなものを食って生きている以上、「役人の頭」だけが特別なわけはない。彼らもわれわれと同じように、美しきを見ては美しと思い、悲しきを聞いては悲しと思うに違いありません。
現在のいわゆる「法治国」においては役人はだいたい「法律」でしばられている。したがって、あまりわがままのきかぬようにはできあがっている。しかし、それでもまだかなりひろい範囲において自由裁量の権限を与えられています。すなわち役人は常に必ずしも「法律」という既定の標準のみによって事を裁断する必要なく、いつでもある程度においては自己の意見を加えて、自由の裁断をなしうるようにできています。しかも、その役人の自由裁量によって、われわれ人民は貴重な財産、自由、名誉、生命などまでをも奪われるようにできているのです。「法治国」とはいうものの実は恐ろしい話である。それにもかかわらず、われわれ人民が比較的驚かずに安心して生きているのは、彼ら「役人の頭」もだいたいわれわれ人民の頭と同様であろう、われわれが美しいと思うものは彼らも美しいと見てくれるであろう、またわれわれが悲しいと思うものは彼らもまた悲しいと聞いてくれるであろう、とこう思えばこそである。われわれは役人もまたわれわれとだいたい同じような心意作用をもつであろうという信頼のもとに、とにかく安心して生きているのである。
「役人」はわれわれ人民にくらべて特別に上等だとか、特別に公平だとか、特別に国に忠義だとかいうように考えて、彼らに信頼しているのではない。もしも、そんな特別なものであって、われわれ普通の人民とは全然別個の世界に住んでいるものだとすれば、われわれは「役人心理学」とでもいうような特別な講義をきいた上でないと、安心してこの世に生きながらえることができないわけです。しかるに幸いにも、われわれ人民が特にかかる講義をきく必要もなく、また特に法律の知識がなくとも、だいたい良心と常識とに従って行動して
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