ているのに気がつきました。世界の舞台に乗り出さねばならぬ、乗り出すにはまず彼らと同じ程度の文化に到達せねばならぬ。
こう考えたわれわれの父祖はまっしぐらに西欧文明の跡を追って走り出したのです。しかし、そう考えてみると、国民一般はまだ十分に目がさめていない。先覚者はまず彼らの目をさまさなければならぬ。目をさました上で、さらに彼らを導かねばならぬ。そうして当時この先覚者の役目を尽くした者は――福沢先生のごとき偉大な民間の指導者もあったことはむろんであるが――主として役人であった。先覚者たる役人は、あるいは国内に大学を建てたり、あるいは秀才を外国に送ったりして、人才の養成に力を致しました。西欧文化の吸収に努力したのです。素質のあったわが国民は実によく吸収しました。その結果、わずか四、五十年の間にわれわれは実によく――少なくとも形式だけでも――欧米の文化に近づくことができたのです。そうして国民をしてここに至らしめた最も大なる功労者はいうまでもなく明治の役人です。
明治五〇年の間役人は陣頭に立って国民を「西欧文明」に向かって突進せしめました。国民もまた実によくその指揮に従って突進しました。しかしながら兵家はよく「兵をして突進せしむるものは指揮者の信念と決心とである」といいます。明治が終って大正に入ったころ、われわれは形式だけはとにかく欧米の文化に追いつくことができた。そうしてわれわれは多少安心をしました。ところが夢中で突進してきた者にとっては、その安心は実に恐るべき安心でした。その結果、指揮者の決心もにぶり、国民もまた多少疲労をおぼえるに至ったのです。ことに役人が今までもっぱら目標として国民を導いてきた西欧の文化は、今や行きづまりを示して新たに向かうべき天地を求めています。今まで深く考えずに、ただ西欧文化を追うて走った独自力にとぼしい役人は、たちまち行きづまりました。
「さてわれわれはこれから何を目標として進もうか?」そのとき国民は役人に向かっていいました。「さてわれわれはどこへ行けばいいのですか? あなたはわれわれをどこへつれてゆくつもりですか?」と。しかし役人は十分この問いに答えることができませんでした。その答えをきいた国民が疑いはじめたのは当然です。不安を感じた彼らは、あたかも成年に達したか達せぬかの子供が突然その父母を失ったと同じように、これからは自分の進むべき道を自分でさがさねばならないのだと考えはじめました。しかし、今まで盲目的に導かれて走ってきた者が、突然指導者を失って急に目をあけてみても、さて自らどちらへ行っていいのかを判断することはきわめて困難です。それはちょうど戦地において敵の軍使を迎える際にまず布をもって彼の目をおおうた上、車をもってある距離を走らしめ、しかる後はじめてその布を除く、かくして目かくしを除かれた軍使には、とうてい敵陣の様子を十分知ることができないのと同じことです。また現在、自己がどこに立っているかを知らぬ者にとっては、いかに詳細な地図もなんらの効能もないのと同じことです。国民はおのおの自己のよしと思うところをたずねて動きはじめました。ある者は古きをたずね、ある者は新しきを追うて。そうしてそのうちきわめてわずかな者だけがみずから考えはじめました。これを称して人は「民心の混乱」というのです。
まだ明治の夢をみている役人と伝統主義者とは驚きました。
「民心統一」せざるべからずと考えたのです。しかし、彼らが従来人民を導きえたのは西欧文化という他人からもらった目標をもっていたからです。ただそれだけを目標として別に深く考えることなしに指揮的態度をつづけてきたのです。ところが今、ようやく追いつきかけたと思うころに欧米はもはや新しい別な方向に向かって進もうとしている。否、すでに進みはじめました。ここにおいて役人と伝統主義者とはもはや彼を追うことはできないということに気がついた。けれども、しからばみずからに独自な別個の目標ありやというに、むろんそれはない。
彼らは従来、あまりに修養を怠りすぎたのです。「自分ははたしてどっちへ行ったらいいのだろう?」彼らはこう疑いはじめたのです。独自力のない彼らはそのとき考えました。欧米もはや追うべからずとせば、わが国みずからの古きに返るよりほか仕方がない。こう考えた彼らは、たちまち復古主義者となって、五〇年来深いお世話になった、そうしてみずから神のごとくにあがめていた、欧米の文化をたちまち弊履のごとくなげうって口汚くののしりはじめました。
そうして外来思想を非難し、魂の抜けた「えせ武士道」を鼓吹し、はなはだしきに至っては物質文化まで排斥し、精鋭な新武器をすてて再び刀をかつぎだすようなことを唱えはじめたのです。彼らの「民心統一」といい、「民力涵養」といい、「淳風美俗」というもの
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