実際にそんなことをやる人があれば、たちまち世の中から排斥されるに決まっています。変な奴だとか、勘定高い奴だとか、つきあいにくい男だとか、いってつまはじきされるに違いありません。ところが、法律家の中にはともすればそういうことを考えている人があります。
 法治国の人民といえども、「常識」と「良心」とに従って行動していさえすればいいのです。またそうなくては困ります。法治国民はいざ裁判所なりお役所なりに出た場合に、法律を知らなかったといって抗弁することは許されない。すなわちひとたび「法律の世界」に入った場合には、法律という尺度によって価値判断を受けることをあらかじめ覚悟していなければならない。しかし、それは決して平素「人間の世界」の活動をするに際しても法律をそらんじ、これに従って行動せねばならぬという理由にはなりません。法を知らざることそれ自体は決して不徳ではない。徳と不徳とは常に道徳によって定まるのである。むろん、国家といい、法律といっても、人間が団体生活をなすについての必要品である。いやしくも団体生活をなす以上、とにかくそのおかげをこうむっているものとみねばならぬ。したがって常識上誰しも知っていてしかるべき法律を知らずにおりながら、ひとたびその適用を受けると、不平を唱えるというがごとき得手勝手は道徳上もまたこれを許しがたい。しかしさらばといって、法の不知は当然道徳上非難さるべきことのように考えるのは非常な誤謬であると、私は考えます。

       七

 しかし私が以上の説をなすのは、決して読者に向かって「法の不知」を奨励しているのではありません。諸君も国をなしている以上、法律を知るほうがいいのです。なぜならば、諸君がみずから正しいと思っている自己の「常識」と「良心」とが、客観的には正しくないこともありうるし、またたとえそれが正しくても不幸にして法律の命ずるところには違背していることもありうるのですから。しかもそれにもかかわらず、私は諸君に向かって「諸君は法律は知らずともいい、しかし常識と良心とに従って行動せねばならぬ」ということを高唱したいのです。そうしてそれは現在のわが国にとって最も必要な考え方だと私は信ずるのです。
 われわれが目常生活を営むにあたっては、「良心」と「常識」とのみを標準としていさえすればいい。法律のことは「法律の世界」に入ったときに考えさえすれば
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