言わなければならないからである。
 ところが、社会学的に今の世の中全体を考察してみると、法治的機構は必ずしも国家にのみ限られていない。会社その他民間の私企業も、その規模が大きくなるにつれて、すべて法治的機構によらなければ秩序正しい能率的の運営を期することができない。否、更に進んで考えれば、資本主義的経営そのものが初めから機械のように信頼し得る法律の存在を条件としてのみ可能なのであって、裁判や行政のような国家機能が法治的でなければならない主な理由もここにあると考えることができる。
 この理は従来既に多くの学者によって説かれているところであるが、最近京都大学の青山秀夫教授が著された『マックス・ウェーバー』のなかに、この点が比較的手際よく簡単に説明されているから、便宜上以下にその一斑を説明紹介しながら、更に多少の補足を付け加えてみたいと思う(同書中特に「第四章近代社会の特徴」)。
 それによると、先ず第一に、現代社会の特徴としてそこには軍隊・官庁・企業・工場等の「大量成員団体」が多数存在して、そのいずれもが「組織の力」によって、「機械のように」秩序正しく「合理的運営」を行っていることである。そしてそのために、一方では学校という特殊な教育機関に「大量の人間が身分・出生を問うことなく収容され、一定年限の間、専門的知識と規律に対する服従能力とを集団的に教育・陶冶され、やがて一定類型の専門的勤務能力をもつものとして大量的におくり出される」。同時にまた、かかる「専門的勤務能力」は、「しばしば、大衆が理解・習得でき、しかも内部に喰い違いのない無矛盾・斉合的な体系(例えば『教科書』『法典』『操典』など)に編集され、教育はこれにもとづいておこなわれる。実際の勤務にあたって勤務者がこういう無矛盾・斉合的な行為規範にしたがうことが、集団全体のあの「一糸みだれぬ」運営の基礎となるわけである」。このように集団的訓練を身に着けた専門的勤務者によって「事務的に」businesslike 万事が秩序正しく合理的に運営される機構組織を、マックス・ウェーバーは「官僚制」と名づけている。
 次に、近代社会の特徴である資本主義の合理的経営は、一面合理的資本計算を基礎としてのみ可能であるように、同時に近代国家の行政・司法における「官僚制」もまた、その必須の前提条件をなしている。「近代国家がその「官僚制」的中央集
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