うことになりやすい。人間というものは、他人の言うことを聞いても、本を読んでも、自分の力相応にしか理解し得ないものである。しかも自分の力の不足には気づかずして、各人それぞれ自分だけはわかったように思うものである。「勉強もするし、また自分では十分わかっていると思うのに、どうも成績が上がりません」など言っている学生のなかには、初めにボンヤリしていて力が後れてしまった者が多いのであって、新たに入学された諸君は、特にこのことに注意する必要がある。
 なお、我々は新入学生から、「講義を聴いていさえすればいいか、それとも参考書を読む必要があるか」というような質問を受けることがしばしばあるが、もしも余裕があれば、参考書を読めば読むほどよろしいに決っている。しかし参考書を利用し得るためには、先ず講義を理解し、そのうえ講義に疑いを挟むだけの力ができなければならない。いたずらに多数の本を読んで学者所説の異同を知っただけでは、何の役にも立たない。各学者の所説のあいだにいろいろ相違があるのは、その相違を生ずべきそれ相応の理由があるのだから、その理由にまで遡《さかのぼ》って各学者の考え方を討究しなければならない。さもないといたずらに物識りになるだけで、法律的に物事を考える力が少しも養われない。これに反して、各学者所説の根柢にまで遡って各学者の考え方を研究するようにすれば、自ずから得るところが非常に多い。参考書を読むことの要否よりも、むしろ読むについての態度を考えることが必要である。

       四

 終りに、も一つ、法学生一般に対する注意として、およそ法学を学ばんとする者は、社会・経済・政治その他人事万端に関する健全な常識を持つよう、一般的教養を豊かにすることを力めねばならないことを言っておきたい。法律の規律対象は人間である。「法律的に物事を考える」についてのその「物事」は、すべて人間に関する事柄であり、またその「考える」諸君自らもまた人間である。人事万端に関する健全な常識を持つ者でなければ、到底適正に、法律的に物事を考え、物事を処理し得る筈がない。しかるに法学生のなかには、ややともすると、狭い法律の技術的世界の内にのみ跼蹐《きょくせき》して、一般的教養を怠るがごとき傾向が認められるのは甚だ遺憾であって、これは、教育の局に当る者としても、また学生としても、大いに注意せねばならない主要事である。一般的教養の重要なるはすべての学生について言わるべきものなること勿論であるが、以上に述べたような意味から、法学生について特にその重要なる所以を力説して、一般の注意を促したい。[#地から1字上げ](『法律時報』九巻四号、昭和十二年四月)



底本:「役人学三則」岩波現代文庫、岩波書店
   2000(平成12)年2月16日第1刷発行
初出:「法律時報 九巻四号」
   1937(昭和12)年4月
入力:sogo
校正:noriko saito
2008年4月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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