いるのであるから、その教育を受けた人間がそういう力を必要とする地位に就くのは当然であって、何の不思議もない。しかるに、ひとり三上博士に限らず、法学教育の真面目に通暁しない人々のあいだには、とかくこの明々白々たる事理が十分理解されていないのである。
三
法学教育の目的は以上のような点にあるのであるから、新たに大学に入学して法学研究に志す諸君は、よくそのことを念頭に入れて学習態度を決める必要がある。さもないと、折角の勉強も十分の成果を収め得ないことになりやすい。
学生として先ず第一に必要なのは、教授が講義を通して示してくれる法律的の考え方を理解して、これを自分のものにするよう力めることである。現在我が国の大学では、主として講義の形式で教育が行われており、演習や米国風のケース・メソッドのように、直接法律的考え方の鍛錬を目的とする教育方法はあまり行われていないけれども、講義のなかで教授自らが――意識的もしくは無意識的に――その考え方をやってみせているのであるから、学生としては法典法条の解説等によって与えられる知識を蓄積することのみを考えずに、常々教授のやってみせる考え方を習得して、これを自分のものにするよう努力しなければならない。
従って第二に、折角大学に入った以上、極力講義に出席して、毎日毎日の努力で法律的考え方の体得を計らなければならない。無論、読書によってこの考え方を習練することも決して不可能ではないけれども、聴講によるのに比べると非常に困難である。平素はあまり講義に出席せずにプリントや教授の著書で試験勉強をしても、考え方の力がつかないから駄目である。力というものは、毎日毎日の努力鍛錬によって段々に発達するものである。だから、教授のなかでも特に教育方法に注意している人々は、学生に段々と力をつけてゆくことを力める。初めは比較的容易な考え方を習得せしめ、これによって段々力がついてゆくのに連れて、複雑な考え方を習得せしめるようにしてゆく。だから入学の当初、「まだ一学期だからいい」などと呑気に構えていると、そのうちには教授の教えることの意味を理解することさえできないようになりがちなものである。学生として一番おそれなければならないのは、自分ではわかったつもりでいて、実は講義の真意を理解していないようになることであって、入学の当初になまけると、とかくこうい
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