裁判官といえども昔の大岡越前守と同じように人間として立派な人でなければいけない。人間として最も完全に近づくように心がけなければいけない。ただその昔の裁判官と違うところは、自分の全人格から自然に流れ出てきた裁判に、現行法を基礎とする理由を附し、裁判を受ける人および世の中一般の人をして自分は決して裁判官の任意な処分で裁判されたのではない、という感じをいだかせなければならないのです。そこが昔と今の違うところで、今日の裁判官のむずかしいところなのです。裁判官には法の理想に関する信念がなければならない。しかも同時に法律に束縛される。この理想の要求と公平の命令とをいかに調和すべきかが、今の裁判官にとって最もむずかしい大事な問題なのです。
それでこの調和問題については私は理想の要求に重きを置くべきであるということをいいたいのですが、このことについて一つのおもしろい話がありますから、それをお話しいたします。
それはイタリアの音楽家の話ですが、その話によると、音楽家が例えばオペラを作る、そうして役者を指導して上演させる。作者はむろん全力を尽くして自分の最もいいと信ずる楽譜を作るわけなのですが、いよいよこれを実際の舞台にかける段になってみると、役者が本式の衣裳をつけて舞台に出る。そうして見物人もいっぱいいる、立派な背景があり、オーケストラもコーラスもまた相手の役者も出て、いよいよ本式に作曲家の作ってくれたものを歌ってみると、なかなか実際上作曲家が自分の全知をふるって考えだした歌が舞台の実際に合わないことが出てくる。役者が実際の場にあたってみると、作曲家の希望や予定とは違った種々のことが出てくる。例えば、このところはこれこれの長さに歌うように、もとの譜はできていても、役者がその場合どうしてもかくかくにしか歌えないということであれば、かくかくに歌うよりほか致し方がない。しからずんば本当に自然な美が出てこないからです。また役者がここは熱情が出るという場合には、その熱情に従って譜を無視して歌ってしまう、それよりほかに仕方がない。ところがイタリアの作曲家はこの最初の上演における役者の実験を是認し、したがって最初の上演において誰々が、こういうふうに歌ったとすれば、それが元来の譜とは違っていても、どんどん歌われてゆく。そこが特にイタリアのオペラがなんともいわれぬ柔らかみをもち、人心の奥底にしみこ
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