るがために、裁判官はしばしば monstrum の法理を応用したといわれています。
ローマでは、たとえ人間の腹から生まれたものでも、それは奇形児で十分人間の形を備えていない場合には、法律上称して monstrum(鬼子)といい、これに与えるに法律上の人格をもってしなかった。この考えは、ローマにおいてはきわめて古くから存在したようであるが、後のユスチニヤン法典中にも法家パウルスの意見として Digestorum Lib. I. Tit. V. de statu hominum L. 14 中に収められている。ところである母が子を生んでみると、それがみにくい鬼子であった。そういう子供を生かしておくのは家の恥辱でもあり、また、本人の不幸でもあると考えて、母はひそかにこれを殺してしまった。やかましく理屈をいえば、それでもやはり一種の殺人には違いない。しかしさらばといって、その母を殺人の罪に問うことは裁判官の人間としてとうてい堪えがたいところである。社会的に考えてもきわめておろかなことです。そこで裁判官は、なんとかして救ってやりたい、その救う手段として考えついたものが、この monstrum の法理です。母は子を殺した、しかし殺したのは人にあらずして monstrum であった、したがって罪にはならぬ。と、こういう理屈をもって憐むべき母を救ったのだということです。
今日の発達した医学の目からみれば「人」の腹から「人にあらざるもの」が生まれるわけはどうしてもありえないのでしょう。しかし、さらばといって、ローマ人はばかだ、無知だと笑ってしまうのはやぼです。なるほど、それは不合理でしょう。しかしとにかく、これで人の命が救われたのです。そうして当時の人は多分その裁判官を賞賛したに違いありません。
またわれわれは、徳川時代の御目付役は「見て見ぬふりをする」をもって大切な心得としていたということを聞きます。合理的にやかましくいえば、いやしくも犯罪を発見した以上、御目付役としてはすべてこれを起訴せねばならぬわけです。ところが、それを一々起訴すればかえって世人は承知しない。その結果「見て見ぬふりをする」すなわち「嘘をつく」をもって御目付役の美徳(?)とされていたものです。ところがこの同じ事はひとり旧幕時代のみに限らず明治、大正の世の中にも行われている。刑事訴訟法が今年改正になりました。その以前には明らかな規定がなかったにかかわらず、学者の多数はいわゆる「便宜主義」(〔Opportunita:tsprinzip〕)と称して、犯罪を起訴するや否やは検事の自由裁量に一任されているものだと主張し、司法官もまたその考えを実行していたのです。「便宜主義」と名を付ければいかにもいかめしくなるが、実をいうと御目付役の見て「見ぬふりをする」のと同じことです。ところがこんどの新刑事訴訟法第二七九条ではついにこれを法文の上に現わして「犯人ノ性格、年齡及境遇並犯罪ノ情状及犯罪後ノ情況ニ因リ訴追ヲ必要トセザルトキハ公訴ヲ提起セザルコトヲ得」と規定するに至った。いわば「嘘」を公認した代りに「嘘つき」の規準を作り、その結果「嘘からまこと」ができたわけなのです。諸君は試みに司法統計のうち「嬰児殺」の部をあけてごらんなさい。今の検事がこの点についていかに多く「見て見ぬふり」をしているかを発見されるでしょう。
四
英米の法律には「名義上の損害賠償」(nominal damages)という制度があります。いったい損害賠償は、読んで字のごとく、実際生じた損害を賠償させることを目的とする制度ですから、たとえ権利侵害があっても、実際上なんらの損害もなければ、損害賠償の義務は発生しないわけです。そこで、例えばわが国においては、甲が乙の所有地内に無断で侵入した場合に、乙から損害賠償請求の訴えが起こされても、その無断侵入の結果、事実乙がなんらの損害もこうむっていなければ、不法行為の成立要件を欠くものとして乙は敗訴せざるをえない。むろんただ合理的に考えれば、乙にはなんらの損害もないのだから、これが賠償を求むべきなんらの権利なきは当然である。けれども甲が乙の権利を侵害したという事実だけは確実です。その点において甲は悪いに違いないのです。ですから権利侵害はあったがなんらの損害もないからという理由で敗訴し、その結果、名目上とにかく敗けたということになり、また同時に、敗訴者として訴訟費用を負担せしめられることは、乙にとってきわめて不愉快なことに違いありません。乙は「賠償はとれずともいい。しかし敗けたくはない」と、こう考えるに違いないのです。この際もしも名目上だけでも乙を勝訴者たらしめることができたら、彼はどれだけ喜ぶでしょう。
英米法の「名義上の損害賠償」は実にこの場合における乙を救
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