基礎の上に初めて存在する。規則によって人の自由を奪うとき、もはやその人の責任を問うことはできないのです。しかるに、万事を規則ずくめに取り扱う役所なり大会社なりは、使用人の責任までをも規則によって形式的に定めようとします。その結果、責任は硬化し形式化して全く道徳的根拠を失います。
ところが、役人も生きねばならぬ。妻子を養わねばならぬ。その役人が自由を与えられることなしに、責任のみ形式的にこれを負担せしめられるとき、彼らははたして黙してその責任に服するであろうか。否、この際、彼は必ずや形式的責任の発生原因たる「事実」をいつわり、「事実」を隠蔽して、責任問題の根源を断とうとするに決まっています。すなわち、彼は「嘘」をつくのです。
右の例を引いた私は、決して最近わが国に起こったなんらか具体的の事件について具体的の判断をくだしたわけではありません。しかし、現在われわれがしばしば「官吏の嘘つき」という事実を耳にするのは本当です。もし、それが事実とすれば、その根源のいずれにありやを考えることは重大問題ではないでしょうか。私はその原因を「責任の硬化」にあるのだと考えます。
親が全く子の要求をきかずに、親の考えのとおり厳重に育てあげようとすれば、子は必ず「嘘つき」になります。
六
以上に述べた二、三の例をみただけでも、「嘘」が法律上いかに大きな働きをしているかがわかるでしょう。
まず第一に、大岡裁判の例やローマの monstrum の話を聞いた方々は、法制があまりに厳重に過ぎる場合に「嘘」がいかに人を救う効能のあるものであるかを十分理解されたことと思う。そうして、いかな正直者の諸君も、なるほど「嘘」もなかなかばかにならぬと感心されたに違いありません。ことに、一国内の保守的分子が優勢なために、法令が移りゆく社会人心の傾向に十分に追随することができず、その結果「社会」と「法令」との間に溝渠ができた場合に「法令」をしてともかくも「社会」と調和せしめるものはただ一つ「嘘」あるのみです。世の中ではよく裁判官が化石したとか、没常識だとか申します。しかし、いかに化石し、いかに没常識であっても、ともかく「人間」です。美しきを見て美しと思い、甘きを食って甘しと思う人間です。ですから、まのあたり被告人を見たり、そのいうところを聴いたり、いろいろと裏面の事情などを知ったりすれば、「法」はどうあろうとも、ともかく「人間」として、ああ処分せねばならぬ、この裁判せねばならぬと考えるのは、裁判官の所為としてまさに当然のことだといわねばなりません。その際、もしも「法」が伸縮自在のものであればともかく、もしも、それが厳重な硬直なものであるとすると、裁判官は必ず「嘘」に助けを求めます。あった事をなかったといい、なかった事をあったといって、法の適用を避けます。そうして「人間」の要求を満足させます。それは是非善悪の問題ではありません。事実なのです。裁判が「人間」によってなされている以上、永久に存在すべき事実なのです。
また、役人の嘘つきの例をきかれた方々、西洋の離婚の話を読まれた方々は、「法」は現在多数の人々ことに司法当局の人々が考えているように、万能のものではないということを十分に気づかれたことと思う。「法」をもってすれば何事をも命じうる、風俗、道徳までをも改革しうるという考えは、為政者のとかく抱きやすい思想です。しかし「人間」は彼らの考えるほど、我慢強く、かつ従順なものではありません。「人間」のできることにはだいたい限りがあります。「法」が合理的な根拠なしにその限度を越えた要求をしても、人は決してやすやすとそれに服従するものではありません。もしもその人が、意思の強固な正直者であれば「死」を賭しても「法」と戦います。またもし、その人が利口者であれば――これが多数の例だが――必ず「嘘」に救いを求めます。そうして「法」の適用を避けます。ですから、「法」がむやみと厳重であればあるほど、国民は嘘つきになります。卑屈になります。「暴政は人を皮肉にするものです」。しかし暴政を行いつつある人は、決して国民の「皮肉」や「嘘つき」や「卑屈」を笑うことはできません。なぜならば、それは彼らみずからの招くところであって、国民もまた彼らと同様に生命の愛すべきことを知っているのですから。
とにかく「法」がひとたび社会の要求に適合しなくなると、必ずやそこに「嘘」が効用を発揮しはじめます。事の善悪は後にこれを論じます。しかしともかく、それは争うべからざる事実です。
七
人間はだいたいにおいて保守的なものです。そうして同時に規則を愛するものです。ばかばかしいほど例外をきらうものです。
例えば、ここに一つの「法」があるとする。ところが世の中がだんだんに変わって、そ
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