ヘ、いかに「杓子定規」をきらい「人間味のある裁判」を欲している人々でも、決して「公平」およびその「保障」の欲求をすてているのではないことです。一度フランス革命の洗礼を受けてきた近代人は、むなしき「自由」の欲求がかえって第一九世紀以来の社会的惨禍をひきおこす原因となった事実を十分に承知しつつもなお「自由」をすてようとはいいません。また、彼らは「法治主義」がややもすれば「杓子定規」の原因となることを十分に知っていながら、なおかつこの「公平の保障」をすてようとはいいません。ですから、われわれが「自由法」を唱道し「法の社会化」を主張するとしても、その際寸時も忘れることのできないのは人々に向かってその「自由」と「公平」とおよびその「保障」とを確保することです。
しかるに、近時学者の多く「自由法」を説き「法の社会化」を主張する者をみるに、あるいは「法の理想」といい、あるいは「法の目的」といい、ないしは「公の秩序、善良の風俗」という以外、真に社会の「公平保障」の要求を満足せしめるに足るべきなんら積極的の考察を提出しているのをみることができない。なるほど、それはよくともすれば「伝統」にとらわれやすい、同時にまた精緻な「論理」に足をすくわれて意気阻喪しやすい若者を鼓舞して勇ましく「新組織」への戦いに従事せしめることができよう。また従来深く根を張った「概念法学」「官僚主義」「形式主義」を打破する効力はあろう。しかし、もしも、学者のなすところがそれのみにとどまるならば、その功績はきわめて一時的である。過渡的である。ただ旧きを壊す以外、なんら人類文化のために新しいものを建設するものではない。おそらくは彼らが前門に「概念法学」を打破しえた暁には「公平」と「自由」との要求が後門よりただちに攻めきたりて彼らを撃つであろう。もしかくのごとくんば、みずからたまたま波の頭に立ってその谷にあるものの低きを笑うとなんらの差異があるか。やがては彼らみずからが波谷におちいって追い来る人々の笑いを招かねばならぬ。かかるものにはたしてどれだけの文化的価値があるか、私は心からこれを疑うのである。
いたずらに、むなしき「理想」を説き「公の秩序、善良の風俗」を云為する者は、結局、裁判官の専制を許容するものでなければなりません。やたらに「自由法」を主張して結局その目的を達した暁に、再び「自由」と「公平」との保障を探し
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