、「法」はどうあろうとも、ともかく「人間」として、ああ処分せねばならぬ、この裁判せねばならぬと考えるのは、裁判官の所為としてまさに当然のことだといわねばなりません。その際、もしも「法」が伸縮自在のものであればともかく、もしも、それが厳重な硬直なものであるとすると、裁判官は必ず「嘘」に助けを求めます。あった事をなかったといい、なかった事をあったといって、法の適用を避けます。そうして「人間」の要求を満足させます。それは是非善悪の問題ではありません。事実なのです。裁判が「人間」によってなされている以上、永久に存在すべき事実なのです。
 また、役人の嘘つきの例をきかれた方々、西洋の離婚の話を読まれた方々は、「法」は現在多数の人々ことに司法当局の人々が考えているように、万能のものではないということを十分に気づかれたことと思う。「法」をもってすれば何事をも命じうる、風俗、道徳までをも改革しうるという考えは、為政者のとかく抱きやすい思想です。しかし「人間」は彼らの考えるほど、我慢強く、かつ従順なものではありません。「人間」のできることにはだいたい限りがあります。「法」が合理的な根拠なしにその限度を越えた要求をしても、人は決してやすやすとそれに服従するものではありません。もしもその人が、意思の強固な正直者であれば「死」を賭しても「法」と戦います。またもし、その人が利口者であれば――これが多数の例だが――必ず「嘘」に救いを求めます。そうして「法」の適用を避けます。ですから、「法」がむやみと厳重であればあるほど、国民は嘘つきになります。卑屈になります。「暴政は人を皮肉にするものです」。しかし暴政を行いつつある人は、決して国民の「皮肉」や「嘘つき」や「卑屈」を笑うことはできません。なぜならば、それは彼らみずからの招くところであって、国民もまた彼らと同様に生命の愛すべきことを知っているのですから。
 とにかく「法」がひとたび社会の要求に適合しなくなると、必ずやそこに「嘘」が効用を発揮しはじめます。事の善悪は後にこれを論じます。しかしともかく、それは争うべからざる事実です。

       七

 人間はだいたいにおいて保守的なものです。そうして同時に規則を愛するものです。ばかばかしいほど例外をきらうものです。
 例えば、ここに一つの「法」があるとする。ところが世の中がだんだんに変わって、そ
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