その男に投げ与えながら、言った。「そしてそれをお前の勝手に使うがよいぞ。それ、馬だ。馬に異状はないか?」
群集をもう一度見て遣《つかわ》しもされずに、侯爵閣下は座席に反《そ》り返って、過《あやま》って何かのつまらぬ品物を壊したが、それの賠償はしてしまったし、その賠償をするくらいの余裕はちゃんとある紳士のような態度で、今まさに馬車を駆って去ろうとした。その時に、彼のゆったりとした気分は、突然、一枚の金貨が馬車の中に飛び込んで来て、その床《ゆか》の上でちゃりんと鳴ったのに、掻き乱された。
「待て!」と侯爵閣下は言った。「馬を停めておけ! 誰が投げおったのか?」
彼は、ちょっと前まで酒屋のドファルジュが立っていた場所に眼をやった。が、その場所にはさっきのあの哀れな父親が鋪石《しきいし》の上に俯向になってひれ伏していて、その傍に立っている人の姿は編物をしている一人の浅黒いがっしりした婦人の姿であった。
「この犬どもめが!」と侯爵は、しかし穏かな語調で、例の鼻の凹みのところだけを除いては顔色も変えずに、言った。「わしは貴様らを誰だろうと構わずにわざと馬に踏みにじらせて、貴様らをこの世から根絶やしにしてくれたいのじゃわい。もしどの悪党が馬車に投げつけおったのかわかろうものなら、そしてその盗賊めが馬車の近くにいようものなら、そやつを車輪にかけて押し潰してやるのじゃが。」
彼等はずいぶん怖気《おじけ》づいていたし、それに、そういうような人間が、法律の範囲内で、またその範囲を越えて、彼等に対してどんなことをすることが出来るかということの経験は、ずいぶん久しい間のつらいものであったので、一つの声も、一つの手も、一つの眼さえも、挙げる者がなかった。男たちの中には、一人もなかったのだ。しかし、編物をしながら立っている例の婦人だけはきっと見上げ、侯爵の顔を臆せずに見た。それに気を留めることは侯爵の威厳に関わることであった。彼の侮蔑を湛えた眼は彼女をちらりと眺め過し、他のすべての鼠どもをちらりと眺め過した。それから再び座席に反り返って、「やれ!」と命じた。
彼は馬車を駆らせて行った。そして他の馬車が後から後へと続々と馳せ過ぎて行った。大臣、国家の山師、収税請負人、医師、法律家、僧侶、大歌劇《グランド・オペラ》、喜劇、燦然たる間断なき流れをなした全仮装舞踏会は、馳せ過ぎて行った。例の鼠どもはそれを見物しに彼等の穴から這い出して来ていた。そして彼等は幾時間も幾時間も見物していた。軍隊と警官隊とがしばしば彼等とその美観との間を通って行って、障壁を作り、彼等はその障壁の背後へこそこそと逃げ、その間からそっと隙見したのだった。さっきの父親はずっと前に自分のあの包みを取り上げるとそれを持って姿を隠してしまい、その包みが飲用泉の台石の上に置いてあった間それに附き添うていた女たちは、そこに腰を下して、水の流れるのと仮装舞踏会が馬車で走ってゆくのとを見守っていたし、――編物をしながら一|際《きわ》目立って立っていた例の一人の婦人は、運命の如き堅実さをもってなおも編物をし続けていた。飲用泉の水は流れて行った。かの馬車の迅速な河は流れて行った。昼は流れて夜となった。その都会の中の多くの生命は自然の法則に従って死へと流れ入って行った。歳月の流れは人を待たなかった。鼠どもは再び彼等の暗い穴の中でくっつき合って眠っていた。仮装舞踏会は晩餐の席で輝かしく照されていた。万物はそれぞれの進路を流れて行った。
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第八章 田舎における貴族《モンセーニュール》
美しい風景。そこには穀物が実ってはいるが、豊かではない。麦のあるべき処にみすぼらしいライ麦の畑。みすぼらしい豌豆《えんどう》や蚕豆《そらまめ》の畑、ごく下等な野菜類の畑が小麦の代りになっている。非情の自然にも、それを耕している男女たちに見ると同様に、不承不承に生長しているように見える一般的な傾向――諦めて枯れてしまおうとする元気のない気風。
侯爵閣下は、四頭の駅馬と二人の馭者とによって嚮導された、彼の旅行馬車(それはいつもの馬車よりは軽快なものであったかもしれなかった)に乗って、嶮しい丘をがたごとと登っていた。侯爵閣下の面上の赤味は彼の立派な躾の非難になるものではなかった★。それは内から起ったものではなかった。それは彼の意力ではどうにも出来ぬ一つの外的の事情――沈みゆく太陽のためになったものであった。
旅行馬車が丘の頂上に達した時にその落陽は非常に燦然と車内へ射し込んで来たので、中に乗っている人は真紅色に浸された。「もうじきに、」と侯爵閣下は自分の手をちらりと眺めながら言った。「薄らぐじゃろう。」
事実、太陽は地平線に近く傾いていたので、その瞬間に没しかけた。重い輪止《わどめ》が車輪にかけられて
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