いて、その銀行の生きた看板になっていた。彼は、使いに行っている時の他《ほか》は、営業時間中にはそこにいないことは決してなかった。そして、その使いに行っている時には、彼の倅《せがれ》が彼の代理をした。彼にそっくり生写《いきうつ》しの、十二歳になる、人相の悪い腕白小僧だ。世間の人々は、テルソン銀行が大まかなやり方でその雑役夫を使ってやっているのだということを承知していた。その銀行はいつも誰かしらそういう資格の人間を使ってやっていたのであって、歳月がこの人間をその地位に運んで来たのである。彼の姓はクランチャーといって、幼少の頃に、ハウンヅディッチ★の東教区教会で、代理人を立てて悪行を棄てると誓った時に★、ジェリーという名を附け加えてもらっていた。
場面は、ホワイトフライアーズ★のハンギング・ソード小路《アレー》におけるクランチャー氏の私宅であった。時は、|わが主の紀元《アノー・ドミナイ》千七百八十年、風の強い三月のある日の朝、七時半。(クランチャー氏自身はわが主の紀元のことをいつもアナ・ドミノーズと言っていた。キリスト紀元なるものはあの一般に流行している遊びの発明された時から始っているのであって、それを発明したある婦人が自分の名をそれに与えたのだ、と明かに思い込んでいたものらしい。★)
クランチャー君の借間《アパートメント》は附近が悪臭のない場所ではなかった。そして、たといたった一枚だけの硝子板の嵌っている物置を一室に数えるとしても、間数《まかず》は二つきりであった。しかし、その二|間《ま》はごくきちんと片附いていた。その風の強い三月のある日の朝、まだ時刻が早かったのに、彼の寝ている部屋はもうすっかり拭き掃除がしてあった。そして、朝食の用意に並べてあるコップや敷皿と、がたがたする樅板との間には、ごく清潔な白い布が掛けてあった。
クランチャー君は、寛《くつろ》いでいるハーリクィンのように、補綴《つぎはぎ》だらけの掛蒲団をかぶって寐ていた★。最初は、ぐっすりと眠っていたが、だんだんと、寝床の中でのたくり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ったり波打ったりし始め、遂には、例の忍返《しのびがえ》しを打ちつけたような髪の毛で敷布《シーツ》をずたずたに裂きそうにしながら、蒲団の上へぬっと起き上った。その途端に、彼は恐しく怒り立った声で呶鳴った。――
「畜生、あいつめまたやってやがるな!」
部屋の一隅に跪いていた、おとなしそうな、勤勉そうな女が、今言われたあいつとは彼女のことであるということが十分にわかるほどあわてておどおどして、立ち上った。
「こら!」とクランチャー君は、寝床の中から片方の長靴を探しながら、言った。「お前《めえ》またやってやがるな。そうだろ?」
この二度目の会釈で朝の挨拶をすませると、彼は三度目の会釈として片方の長靴をその女をめがけて投げつけた。それはひどく泥だらけな長靴であった。そして、それは、彼が銀行の時間がすんでからきれいな靴で家へ戻って来るのに、次の朝起きる時にはその同じ長靴が粘土だらけになっていることがしばしばあるという、クランチャー君の家事経済に関係のある、奇妙な事柄★を紹介し得るのである。
「何を、」とクランチャー君は、狙った的《まと》に中《あ》てそこなってから自分の呼びかける人間の言い方を変えて、言った。――「何を手前《てめえ》はしてやがったんでえ、人に迷惑をかける奴め?」
「わたしはただお祈りを唱えていただけですよ。」
「お祈りを唱えていたと! ひでえ阿魔《あま》だよ、手前《てめえ》は! へえつくばりやがって、おれに悪いことになるようにって祈るなんて、どういうつもりなんだ?」
「わたしはお前さんに悪いようになんて祈りやしませんよ。お前さんによいようにと祈ってたんです。」
「そうじゃねえだろ。よしそうだったにしろ、おれあそんな勝手な真似なんぞしてもれえたかねえ。おい! お前《めえ》のおっ母《かあ》はひでえ女だぜ、ジェリー坊。お前《めえ》の父《とう》ちゃんの運がよくならねえようにってお祈りをするんだからな。お前《めえ》は律義なおっ母を持ったもんだよ、お前《めえ》はな、小僧。お前《めえ》は信心深えおっ母を持ったもんだぞ、お前《めえ》はよ、なあ、坊主。へえつくばって、自分の独り息子の口からバタ附きパンをひったくって下さいって祈るんだからなあ!」
小クランチャー君(彼はシャツのままでいた)はこれをひどく怒って、母親の方へ振り向くと、自分の食物を祈って取ってしまうようなことは一切してくれるなと烈しく異議を唱えた。
「ところで、この自惚《うぬぼ》れ女め、手前《てめえ》はな、」とクランチャー君は、前後撞著に気がつかずに、言った。「手前の[#「手前の」に傍点]お祈りの値打がどれだけあるだろうと思ってるんだい?
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