い、とあたくしは思いますわ。」
「それあそうですよ。」と、見たり聞いたりするのに跪いていたドファルジュは、言った。「そればかりじゃありません。ムシュー・マネットは、あらゆる理由から、フランスを去られる方が一番いいんです。じゃあ、わっしは馬車と駅馬を雇って来ましょうか?」
「それは事務ですな。」とロリー氏は、すぐさま彼の几帳面な態度に返りながら、言った。「事務をやらねばならんのでしたら、わたしがやる方がいいでしょう。」
「では、どうぞあたくしたち二人をここに残しておいて下さいまし。」とマネット嬢は言い張った。「御覧の通り父はこんなに落著いて参りましたから、もう父をあたくしと一緒に残してお出でになりましても御心配はございません。どうして御心配なことなどございましょう? 誰も入って来ませんように扉《ドア》に錠を下して下さいますなら、きっと、父は、あなた方がお戻りになります時には、お出かけの時と同じように穏かにしておりますでしょうよ。何にしましても、あなた方がお帰りになりますまであたくしは父を預りましょう。そしてお帰りになりましたらあたくしたちは早速父を連れ出すことにいたしましょう。」
ロリー氏もドファルジュも二人とも、このやり方は幾分気が進まず、二人の中のどちらか一人が残ることに賛成であった。けれども、馬車と馬の手配りをしなければならぬだけではなく、旅行免状の手配りもしなければならなかったし、それに、日も暮れようとしていて、時間が切迫していたので、とうとう、ぜひしなければならない用事を大急ぎで二人に分けて、それをしに二人が急いで出かけるということになった。
それから、闇が迫って来ると、娘は自分の頭を父親のすぐ傍の堅い床《ゆか》の上に横えて、彼を見守っていた。闇はだんだんと濃くなって来た。そして二人は静かに横わっていた。そのうちに、とうとう、壁の例の隙間から灯光が一つちらちら洩れて来た。
ロリー氏とムシュー・ドファルジュとが、すっかり旅行の準備をすませて、旅行用の外套や肩掛膝掛などの他《ほか》に、パンと肉、葡萄酒、熱い珈琲を携えて来た。ムシュー・ドファルジュは、この食糧と、彼の持っているランプとを、靴造りの腰掛台《ベンチ》(その屋根裏部屋にはそれ以外に藁蒲団の寝台《ベッド》が一つあるだけだった)の上に置いた。それから彼とロリー氏とは囚人を呼び覚し、助けて立ち上らせた。
彼の顔に現れた、おびえたような、茫然とした驚きの中に、彼の心の奥を読み取ることは、いかなる人智にも出来なかったろう。彼がこれまでに起ったことを知っているのかどうか、彼等が彼に言ったことを思い出せるのかどうか、彼が自分の自由になっていることを知っているのかどうか、それはいかなる智慧も解くことの出来ない疑問であった。彼等は彼に話しかけてみた。が、彼はひどくまごまごして、返事もなかなか出来ないので、彼等は彼の当惑する様にびっくりして、当分はその上彼をいじくらないことにしようということにした。彼は、時々両手で頭を抱えるような、前には彼に見られなかった、狂気じみた、我を忘れたような挙動をした。それでも、娘の声だけでも聞くのは幾分気持がよいらしく、彼女が口を利く時にはきっとその方へ振り向くのであった。
圧制に服従するのに永い間慣れていた人間に見られる柔順な態度で、彼は、彼等が飲み食いするようにと与えたものを飲み食いし、彼等が身に著けるようにと与えた外套やその他の身に纒うものを著た。彼は娘がその腕を彼の腕と組もうとするのにすぐに応じて、彼女の手を自分の両手に取って――放さずに持っていた。
一同は下へ降り始めた。ムシュー・ドファルジュはランプを持って真先に行き、ロリー氏はその小さな行列の殿《しんがり》になった。あの長い本階段をそう幾段も降りないうちに彼は立ち止って、屋根をじっと見つめ、壁をじろじろ見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。
「この場所を覚えていらっしゃいますか、お父さま? あなたはここを上っていらしたことを覚えていらっしゃいますか!」
「何と仰しゃったかな?」
しかし、彼女がその問を繰返さないうちに、彼はあたかも彼女がその問を繰返したかのように答を呟いた。
「覚えているかって? いいや、覚えていない。あれはずいぶん以前のことだったからな。」
彼が牢獄からこの家へ連れて来られたことについては少しの記憶も持っていないのは、彼等には明白になった。彼等は彼が「北塔百五番。」と呟くのを聞いた。そして、彼が自分の周囲を眺める時には、明かにそれは自分を永い間取囲んでいた堅固な城壁を探し求めるためであったのだ。一同が中庭まで来ると、彼は、吊上げ橋のあるのを予期しているように、知らず識らずのうちに歩き振りを変えた。ところが、吊上げ橋がなくて、からりとしている街路に
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