んでも一切触れるのを怖《こわ》がっていらっしゃるんですよ。」
「怖がって?」
「なぜ怖がっていらっしゃるかってことはよっくわかる、と思うんですが。それは恐しい思い出ですもの。それにまた、あの方《かた》が正気をなくされましたのもそれから起ったことですもの。どんな風にして正気をなくしたのか、またどんな風にして正気に戻ったのかということを御自分では御存じないので、あの方《かた》には自分がまた正気をなくしないってことはどうしてもはっきりと請合《うけあ》えないんでしょう。このことだけだってその話はあの方《かた》には気持がよくはないんだろうと、私はそう思うんです。」
これはロリー氏が予期していたより以上の意味深長な言葉であった。「なるほど。」と彼は言った。「だから考えるのも恐しいんだね。それにしてもだ、|プロスさん《ミス・プロス》、わたしの心の中には疑いが一つ残っているんですがね。そういう気持を御自分の心の中に始終押し隠しておられるということは|マネット先生《ドクター・マネット》のためにいいかどうか、ということなんだ。実際、その疑いのために、またその疑いから時々私の心に起る不安のために、わたしはこの現在の打明け話をする気になったのだが。」
「どうともしようがないんでしょうね。」とプロス嬢が頭を振りながら言った。「そのことにちょっとでも触れるとなると、あの方《かた》はじきに工合が悪くなるんですもの。うっちゃってそのままにしておく方がいいんでしょうね。つまり、厭《いや》でも応でも、うっちゃってそのままにしておくより他《ほか》はないんでしょう。時々、あの方《かた》は真夜中《まよなか》にお起きになりましてね、御自分のお部屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになるのが、この上のあそこにいる私どもに聞えることがよくありますの。お嬢さまは、そんな時には、あの方《かた》のお心が昔の牢屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになっているのだとお思いになるように、今ではなっていらっしゃいます。で、急いであの方《かた》のところへお出でになりまして、お二人で御一緒に、そのまま往ったり来たり、往ったり来たりして、あの方《かた》のお心が落著くまで、お歩きになるんですよ。しかしあの方《かた》はお嬢さまに御自分のじっとしておられぬことのほんとうの原因を一|言《こと》も決して仰しゃいません
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