スクルージには、目に当るほどの門も、柱も、木も一々見覚えがあった。こうして歩いて行くうちに、遥か彼方に橋だの、教会だの、曲り紆《くね》った河だののある小さな田舎町が見え出した。折柄二三頭の毛むくじゃらの小馬が、その背に男の子達を乗せて、二人の方へ駆けて来るのが見えた。その子供達は、百姓の手に馭された田舎馬車や荷馬車に乗っかっている他の子供達に声を掛けていた。これ等の子供達は皆上機嫌で、互にきゃっきゃっと声を立てて喚び合った。で、仕舞には清々《すがすが》しい冬の空気までそれを聞いて笑い出したほど、広い田野が一面に嬉しげな音楽で満たされた位であった。
「これはただ昔あったものの影に過ぎないのだ」と、幽霊は云った。「だから彼等には私達のことは分らないよ。」
 陽気な旅人どもは近づいて来た。で、彼等が近づいて来た時、スクルージは一々彼等を見覚えていて、その名前を挙げた。どうして彼は彼等に会ったのをあんなに法外に悦んだのか。彼等が通り過ぎてしまった時、何だって彼の冷やかな眼に涙が燦めいたのか、彼の心臓は躍り上ったのか。各自の家路に向って帰るとて、十字路や間道で別れるに際して、彼等がお互いに聖降誕祭お目出とうと言い交わすのを聞いた時、何だって彼の胸に嬉しさが込み上げて来たか。一体スクルージに取って聖降誕祭が何だ? 聖降誕祭お目出とうがちゃんちゃら可笑しいやい! 今まで聖降誕祭が何か役に立ったことがあるかい。
「学校はまだすっかり退《ひ》けてはいないよ」と、幽霊は云った。「友達に置いてけぼりにされた、独りぼっちの子がまだそこに残っているよ。」
 スクルージはその子を知っていると云った。そして、彼は啜り泣きを始めた。
 彼等はよく覚えている小路を取って、大通りを離れた。すると、間もなく屋根の上に風信機を頂いた小さな円頂閣のある、そして、その円頂閣に鐘の下がっている、どす赤い煉瓦の館へ近づいて行った。それは大きな家であったが、また零落した家でもあった。広々とした台所もほとんど使われないで、その塵は湿って苔蒸していた、窓も毀れていた、門も立ち腐れになっていた。鶏はくっくっと鳴いて、厩舎の中を威張りくさって歩いていた。馬車入れ小舎にも物置小舎にも草が一面にはびこっていた。室内も同じように昔の堂々たる面影を留めてはいなかった。陰気な見附けの廊下に這入って、幾つも開け放しになった室の戸口から覗いて見ると、どの室にも碌な家具は置いてなく、冷え切って、洞然としていた。空気は土臭い匂いがして、場所は寒々として何もなかった、それがあまりに朝はやく起きて見たが、喰う物も何もないのと、どこか似通うところがあった。
 彼等は、幽霊とスクルージとは、見附けの廊下を横切って、その家の背後にある戸口の所まで行った。その戸口は二人の押すがままに開いて、彼等の前に長い、何にもない、陰気な室を展げて見せた。木地のままの樅板の腰掛と机とが幾筋にも並んでいるのが、一層それをがらんがらんにして見せた。その一つに腰掛けて、一人の寂しそうな少年が微温火《とろび》の前で本を読んでいた。で、スクルージは一つの腰掛に腰を下ろして、長く忘れていたありし昔の憐れな我が身を見て泣いた。
 家の中に潜んでいる反響も、天井裏の二十日鼠がちゅうちゅう鳴いて取組み合いをするのも、背後の小暗い庭にある半分氷の溶けた樋口の滴りも、元気のない白楊の[#「白楊の」は底本では「柏楊の」]葉の落ち尽した枝の中に聞える溜息も、がら空きの倉庫の扉の時々忘れたようにばたばたするのも、いや、煖炉の中で火の撥ねる音も、一としてスクルージの胸に落ちて涙ぐませるような影響を与えないものはなかった、また彼の涙を一層惜し気もなく流させないものはなかった。
 精霊は彼の腕に手を掛けて、読書に夢中になっている若い頃の彼の姿を指さして見せた。不意に外国の衣裳を身に着けた、見る眼には吃驚するほどありありとかつはっきりとした一人の男が、帯に斧を挟んで、薪を積んだ一疋の驢馬の手綱を取りながら、その窓の外側に立った。
「何だって、アリ・ババじゃないか!」と、スクルージは我を忘れて叫んだ。「正直なアリ・ババの老爺さんだよ。そうだ、そうだ、私は知ってる! ある聖降誕祭の時節に、あそこにいるあの独りぼっちの子がたった一人ここに置いてけぼりにされていた時、始めてあの老爺さんがちょうどああ云う風をしてやって来たのだ。可哀そうな子だな! それからあのヴァレンタインも」と、スクルージは云った、「それからあの乱暴な弟のオルソンも。あれあれあすこへ皆で行くわ! 眠っているうちに股引を穿いたまま、ダマスカスの門前に捨てて置かれたのは、何とか云う名前の男だったな! 貴方にはあれが見えませんか。それから魔鬼のために逆様に立たせて置かれた帝王《サルタン》の馬丁は。ああ、あすこに頭を下にして立っている! 好い気味だな。僕はそれが嬉しい! 彼奴がまた何の権利があって姫君の婿になろうなぞとしたのだ!」
 スクルージが笑うような泣くような突拍子もない声で、こんな事に自分の真面目な所をすっかり曝け出しているのを聞いたり、彼のいかにも嬉しそうな興奮した顔を見たりしようものなら、本当に倫敦市の商売仲間は吃驚したことであろう。
「あすこに鸚鵡がいる!」と、スクルージは叫んだ。「草色の体躯に黄色い尻尾、頭の頂辺《てっぺん》から萵苣《ちしゃ》の[#「萵苣《ちしゃ》の」は底本では「萵苔《ちしゃ》の」]ようなものを生《は》やして。あすこに鸚鵡がいるよ。可哀そうなロビン・クルーソーと、彼が小船で島を一周りして帰って来た時、その鸚鵡は喚びかけた。『可哀そうなロビン・クルーソー、どこへ行って来たの、ロビン・クルーソー?』クルーソーは夢を見ていたのだと思ったが、そうじゃなかった。鸚鵡だった、御存じの通りに。あすこに金曜日《フライデー》が行く。小さな入江を目がけて命からがら駆け出して[#「駆け出して」は底本では「騙け出して」]行く、しっかり! おーい! しっかり!」
 それから彼は、平生の性質とは丸で似も附かない急激な気の変りようで以て、昔の自分を憐れみながら、「可哀そうな子だな!」と云った。そして、再び泣いた。
「ああ、ああして遣りたかったな」と、スクルージは袖口で眼を拭いてから、衣嚢に手を突込んで四辺を見廻わしながら呟いた。「だが。もう間に合わないよ。」
「一体どうしたと云うんだね?」
「何でもないんです」と、スクルージは云った。「何でもないんです。昨宵私の家の入口で聖降誕祭の頌歌を歌っていた子供がありましたがね。何か遣れば可かったとこう思ったんですよ、それだけの事です。」
 幽霊は意味ありげに微笑した。そして、「さあ、もっと他の聖降誕祭を見ようじゃないか」と云いながら、その手を振った。
 こう云う言葉と共に、昔のスクルージ自身の姿はずっと大きくなった。そして、部屋は幾分暗く、かつ一層汚くなった。羽目板は縮み上がって、窓には亀裂が入った。天井からは漆喰の破片《かけら》が落ちて来て、その代りに下地の木片が見えるようになった。しかしどうしてこう云う事になったかと云うことは、読者に分らないと同様に、スクルージにも分っていなかった、ただそれがまったくその通りであったと云うことは、何事もかつてその通りに起ったのだと云うことは、他の子供達が皆楽しい聖降誕祭の休日をするとて家へ帰って行ったのに、ここでもまた彼ひとり残っていたと云うことだけは、彼にも分っていた。
 彼は今や読書していなかった、落胆《がっかり》したように往ったり来たりしていた。スクルージは幽霊の方を見遣った。そして、悲しげに頭を振りながら、心配そうに戸口の方をじろりと見遣った。
 その戸が開いた。そして、その少年よりもずっと年下の小娘が箭を射るように飛び込んで来た。そして、彼の首のまわりに両腕を捲き附けて、幾度も幾度も相手に接吻しながら、「兄さん、兄さん」と喚び掛けた。
「ねえ兄さん、私兄さんのお迎いに来たのよ」と、その小っぽけな手を叩いたり、身体を二つに折って笑ったりしながら、その子は云った。「一緒に自宅《うち》へ行くのよ、自宅へ! 自宅へ!」
「自宅へだって? ファンよ」と、少年は問い返した。
「そうよ!」と、その子ははしゃぎ切って云った。「帰りっ切りに自宅へ、永久に自宅へよ。阿父さんもこれまでよりはずっと善くして下さるので、本当にもう自宅は天国のようよ! この間の晩寝ようと思ったら、それはそれは優しく物を言って下すったから、私も気が強くなって、もう一度、兄さんが自宅へ帰って来てもいいかって訊いて見たのよ。すると、阿父さんは、ああ、帰って来るんだともだって。そして、兄さんのお迎いに来るように私を馬車へ乗せて下さったのよ。で、兄さんもいよいよ大人になるのね!」と、子供は眼を大きく見開きながら云った、「そして、もう二度とはここへ帰って来ないのよ。でも、その前に私達は聖降誕祭中一緒に居るのね。そして、世界中で一番面白い聖降誕祭をするのね。」
「お前はもうすっかり大人だね、ファン!」と、少年は叫んだ。
 彼女は手を打って笑った。そして、彼の頭に触ろうとしたが、あまり小さかったので、また笑って爪先で立ち上りながら、やっと彼を抱擁した。それから彼女はいかにも子供らしく一生懸命に彼を戸口の方へ引っ張って行った。で、彼は得たり賢しと彼女に随って出て行った。
 誰かが玄関で「スクルージさんの鞄を下ろして来い、そら!」と怖しい声で呶鳴った。そして、その広間のうちに校長自身が現れた。校長は見るも怖ろしいような謙譲の態度で少年スクルージを睨め附けた。そして、彼と握手をすることに依ってすっかり彼を慄え上がらせてしまった。それから彼は少年とその妹とを、それこそ本当にかつてこの世に存在した最も古井戸らしい古井戸と云っても可いような寒々しい最上の客間へ連れ込んだ。そこには壁に地面が掛けてあり、窓には天体儀と地球儀とが置いてあったが、両方とも寒さで蝋のようになっていた。ここで校長はへんてこに軽い葡萄酒の容器と、へんてこに重い菓子の一塊片《ひとかけら》とを持ち出して、若い人々にそれ等の御馳走を一人分ずつ分けて遣った。と同時に馭者のところへも『何物か』の一杯を瘠せこけた下男に持たせてやった。ところが、馭者は、それは有難う御座いますが、この前戴いたのと同じ口のお酒でしたら、もう戴かない方が結構でと答えたものだ。少年スクルージの革鞄はその時分にはもう馬車の頂辺に括り着けられていたので、子供達はただもう心から悦んで校長に暇を告げた。そして、それに乗り込んで、菜園の中の曲路を笑いさざめきながら駆り去った。廻転のはやい車輪は、常磐木の黒ずんだ葉から水烟のように霜だの雪だのを蹴散らして行った。
「いつも脾弱《ひよわ》な、一と吹きの風にも萎んでしまいそうな児だった」と、幽霊は云った、「だが、心は大きな児だよ!」
「左様でした」と、スクルージは叫んだ、「仰しゃる通りです。私はそれを否認しようとは思いません、精霊どの。いやもう決して!」
「彼女は一人前になって死んだ」と、幽霊は云った、「そして、子供達もあったと思うがね。」
「一人です」と、スクルージは答えた。
「いかにも、」と、幽霊は云った。「お前さんの甥だ!」
 スクルージは心中不安げに見えた。そして、簡単に「そうです」と答えた。
 彼等はその瞬間学校を後にして出て来たばかりなのに、今はある都会の賑やかな大通りに立っていた。そこには影法師のような往来の人が頻りに往ったり来たりしていた。そこにはまた影法師のような荷車や馬車が道を争って、あらゆる実際の都市の喧騒と雑閙とがあった。店の飾り附けで、ここもまた聖降誕祭の季節であることは、明白に分っていた。ただし夕方であって、街路には灯火が点いていた。
 幽霊はある商店の入口に立ち停まった。そして、スクルージにそれを知っているかと訊ねた。
「知っているかですって!」と、スクルージは答えた。「私はここで丁稚奉公をして居たことがあるんですよ。」
 彼等は中に這入って行った。ウエルス人の鬘(註、老人の被
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