刻とが徒歩の目的に適していないと云ったところで、寝床が温かで、寒暖計はずっと氷点以下に降っていると抗弁したところで、自分は僅かに上靴と寝間着と夜帽しか着けていないのだと抗言《あらが》って見たところで、また当時自分は風邪を引いていると争ったところで、そんな事はスクルージに取っては何の役にも立たなかったろう。婦人の手のように優しくはあったが、その把握には抵抗すべからざるものがあった。彼は立ち上がった。が、精霊が窓の方へ歩み寄るのを見て、彼はその上衣に縋り着いて哀願した。
「私は生身の人間で御座います」と、スクルージは異議を申立てた、「ですから落ちてしまいますよ。」
「そこへ一寸私の手を当てさせろ」と幽霊はスクルージの胸に手を載せながら云った。「そうすれば、お前さんはこんな事位でない、もっと危険な場合にも支えて貰われるんだよ。」
こう云っているうちに、彼等は壁を[#「壁を」は底本では「塵を」]突き抜けて、左右に畠の広々とした田舎道に立った。倫敦《ロンドン》の町はすっかり消えてなくなった。その痕跡すら見られなかった。暗闇も霧もそれと共に消えてしまった。それは地上に雪の積っている、晴れた、冷い、冬の日であった。
「これは驚いた!」と、スクルージは自分の周囲を見廻して、両手を固く握り合せながら云った。「私はここで生れたのだ。子供の時にはここで育ったのだ!」
精霊は穏かに彼を見詰めていた。精霊が優しく触ったのは、軽くてほん[#「ほん」に傍点]の瞬間的のものではあったが、この老人の触覚には尚まざまざと残っているように思われた。彼は空中に漂っている様々な香気に気が附いた。そして、その香りの一つ一つが、長い長い間忘れられていた、様々な考えや、希望や、喜びや、心配と結び着いていた。
「お前さんの唇は慄えているね」と、幽霊は云った。「それにお前さんの頬の上のそれは何だね。」
スクルージは平生に似合わず声を吃らせながら、これは面瘡《にきび》だと呟いた。そして、どこへなりと連れて行って下さいと幽霊に頼んだ。
「お前さんこの道を覚えているかね?」と、精霊は訊ねた。
「覚えていますとも!」と、スクルージは勢い込んで叫んだ、「目隠をしても歩けますよ。」
「あんなに長い年月それを忘れていたと云うのは、どうも不思議だね!」と、幽霊は云った。「さあ行こうよ。」
二人はその往還に沿って歩いて行った。スクルージには、目に当るほどの門も、柱も、木も一々見覚えがあった。こうして歩いて行くうちに、遥か彼方に橋だの、教会だの、曲り紆《くね》った河だののある小さな田舎町が見え出した。折柄二三頭の毛むくじゃらの小馬が、その背に男の子達を乗せて、二人の方へ駆けて来るのが見えた。その子供達は、百姓の手に馭された田舎馬車や荷馬車に乗っかっている他の子供達に声を掛けていた。これ等の子供達は皆上機嫌で、互にきゃっきゃっと声を立てて喚び合った。で、仕舞には清々《すがすが》しい冬の空気までそれを聞いて笑い出したほど、広い田野が一面に嬉しげな音楽で満たされた位であった。
「これはただ昔あったものの影に過ぎないのだ」と、幽霊は云った。「だから彼等には私達のことは分らないよ。」
陽気な旅人どもは近づいて来た。で、彼等が近づいて来た時、スクルージは一々彼等を見覚えていて、その名前を挙げた。どうして彼は彼等に会ったのをあんなに法外に悦んだのか。彼等が通り過ぎてしまった時、何だって彼の冷やかな眼に涙が燦めいたのか、彼の心臓は躍り上ったのか。各自の家路に向って帰るとて、十字路や間道で別れるに際して、彼等がお互いに聖降誕祭お目出とうと言い交わすのを聞いた時、何だって彼の胸に嬉しさが込み上げて来たか。一体スクルージに取って聖降誕祭が何だ? 聖降誕祭お目出とうがちゃんちゃら可笑しいやい! 今まで聖降誕祭が何か役に立ったことがあるかい。
「学校はまだすっかり退《ひ》けてはいないよ」と、幽霊は云った。「友達に置いてけぼりにされた、独りぼっちの子がまだそこに残っているよ。」
スクルージはその子を知っていると云った。そして、彼は啜り泣きを始めた。
彼等はよく覚えている小路を取って、大通りを離れた。すると、間もなく屋根の上に風信機を頂いた小さな円頂閣のある、そして、その円頂閣に鐘の下がっている、どす赤い煉瓦の館へ近づいて行った。それは大きな家であったが、また零落した家でもあった。広々とした台所もほとんど使われないで、その塵は湿って苔蒸していた、窓も毀れていた、門も立ち腐れになっていた。鶏はくっくっと鳴いて、厩舎の中を威張りくさって歩いていた。馬車入れ小舎にも物置小舎にも草が一面にはびこっていた。室内も同じように昔の堂々たる面影を留めてはいなかった。陰気な見附けの廊下に這入って、幾つも開け放しになった室の戸口から
前へ
次へ
全46ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ディケンズ チャールズ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング