うところはない。
「貴方は誰ですか?」
「誰であったかと訊いて貰いたいね。」
「じゃ、貴方は誰であったか」と、スクルージは声を高めて云った。「幽霊にしては、いやにやかましいね。」彼は「些細なことまで」と云おうとしたのだが、この方が一層この場に応《ふさ》わしいと思って取り代えた。(註、「幽霊にしては」と「些細なことまで」が原語では語呂の上の「しゃれ」になっているのである。)
「存生中は、私は貴方の仲間、ジェコブ・マアレイだったよ。」
「貴方は――貴方は腰を掛けられるかね」と、スクルージはどうかなと思うように相手を見ながら訊ねた。
「出来るよ。」
「じゃ、お掛けなさい。」
スクルージがこの問を発したのは、こんな透明な幽霊でも椅子なぞに掛けられるものかどうか、彼には分らなかったからである。そして、それが出来ないという場合には、幽霊も面倒な弁解の必要を免れまいと感じたからである。ところが、幽霊はそんな事には馴れ切っているように、煖炉の向う側に腰を下ろした。
「お前さんは私を信じないね」と、幽霊は云った。
「信じないさ」と、スクルージは云った。
「私の実在については、お前さんの感覚以上にどんな証拠があると思っているのかね。」
「私には分らないよ」と、スクルージは云った。
「じゃ、何だって自分の感覚を疑うのか。」
「だって」と、スクルージは云った、「些細な事が感覚には影響するものだからね。胃の工合が少し狂っても感覚を詐欺師にしてしまうよ。お前さんは消化し切れなかった牛肉の一片かも知れない。芥子の一点か、乾酪の小片か、生煮えの薯の砕片位のものかも知れないよ。お前さんが何であろうと、お前さんには墓場よりも肉汁の気の方が余計にあるね。」
スクルージはあまり戯談なぞ云う男ではなかった。またこの時は心中決して剽軽な気持になってもいなかった。実を云えば、彼はただ自分の心を紛らしたり、恐怖を鎮めたりする手段として、気の利いた事でも云って見ようとしたのであった。それと云うのも、その幽霊の声が骨の髄まで彼を周章せしめたからであった。
一秒でも黙って、このじっと据わった、どんよりと光のない眼を見詰めて腰掛けていようものなら、それこそ自分の生命に関わりそうに、スクルージは感じた。それに、その幽霊が幽霊自身の地獄の風を身の周りに持っていると云うことも、何か知ら非常に恐ろしい気がした。スクルージは自分が直接その風を受けたのではなかった。しかしそれは明白に事実であった。と云うのは、この幽霊は全然身動きもしないで腰掛けていたけれども、その毛髪や、着物の裾や長靴の※[#「糸+遂」、27−7]が、竈から昇る熱気にでも吹かれているように、始終動いていたからである。
「この楊子は見えるだろうね?」と、スクルージは今挙げたような理由の下に、早速突撃に立ち戻りながら、また一つにはただの一秒間でもよいから、幽霊の石のような凝視を側《わき》へ逸《そ》らしたいと望みながら訊いた。
「見えるよ」と、幽霊が答えた。
「楊子の方を見ていないじゃないか」と、スクルージは云った。
「でも、見えるんだよ」と、幽霊は云った。「見ていなくてもね。」
「なるほど!」と、スクルージは答えた。「私はただこれを丸呑みにしさえすれば可いのだ。そして、一生の間自分で拵えた化物の一隊に始終いじめられてりゃ世話はないや。馬鹿々々しい、本当に馬鹿々々しいやい!」
これを聞くと、幽霊は怖ろしい叫び声を挙げた。そして、物凄い、慄然《ぞっ》とするような物音を立てて、その鎖を揺振《ゆすぶ》ったので、スクルージは気絶してはならないと、しっかりと椅子に獅噛み着いた。しかし幽霊が室内でこんな物を巻いているのはちと暖か過ぎるとでも云うように頭からその繃帯を取り外したので、その下顎がだらりと胸に重ね落ちた時には、彼の恐怖は前よりもどんなに大きかったことであろう!
スクルージはいきなり跪いて、顔の前に両手を合せた。
「お助け!」と彼は云った。「恐ろしい幽霊様、どうして貴方は私をお苦しめになるのだ?」
「世間の欲に眼の暮れた男よ」と、幽霊は答えた。「お前は私を信ずるかどうじゃ?」
「信じます」と、スクルージは云った。「信じないでは居られませぬ。ですが、何故幽霊が出るのですか。また何だって私の許へやって来るのですか。」
「誰しも人間というものは」と、幽霊は返答した。「自分の中にある魂が世間の同胞の間へ出て行って、あちこちとひろく旅行して廻らなければならないものだ。若しその魂が生きているうちに出て歩かなければ、死んでからそうするように申し渡されているのだ。世界中をうろつき歩いて、――ああ悲しいかな!――そして、この世に居たら共に与かることも出来たろうし、幸福に転ずることも出来たろうが、今は自分の与かることの出来ない事柄を目撃するように
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