可難《むづか》しげに眉《まゆ》を寄せ、唇《くちびる》を引結びて、
「何者か知らんて、一向|心当《こころあたり》と謂うては無い。名は言はんて?」
「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」
「さうして今晩来るのか」
「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては耐《たま》りませんから、貴方本当に来ましたら、篤《とつく》り説諭して、もう来ないやうに作《なす》つて下さいよ」
「そりや受合へん。他《さき》が気違ぢやもの」
「気違だから私《わたし》も気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか」
「幾多《いくら》頼まれたてて、気違ぢやもの、俺《おれ》も為やうは無い」
 頼める夫《つま》のさしも思はで頼無《たのみな》き言《ことば》に、お峯は力落してかつは尠《すくな》からず心|慌《あわつ》るなり。
「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡して遣《や》りませう」
 直行は打笑《うちわら》へり。
「まあ、そんなに騒がんとも可《え》え」
「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」
「誰も気違の好《え》えものは無い」
「それ、御覧なさいな」

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