立てて泣きぬ。
 憤《いかり》を抑《おさ》ふる貫一の呼吸は漸《やうや》く乱れたり。
「宮《みい》さん、お前は好くも僕を欺いたね」
 宮は覚えず慄《をのの》けり。
「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」
「まあ、そればつかりは……」
「おおそればつかりは?」
「余《あんま》り邪推が過ぎるわ、余り酷《ひど》いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
 泣入る宮を尻目に挂《か》けて、
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為《せ》んよ。
 お前が得心せんものなら、此地《ここ》へ来るに就いて僕に一言《いちごん》も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来《よこ》すが可いぢやないか。出抜《だしぬ》いて家を出るばかりか、何の便《たより》も為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈《てはず》になつてゐたのだ。或《あるひ》は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦《かんぷ》だよ。姦通《かんつう》したも同じだよ」
「そんな酷いことを、貫一さん、余《あんま》りだわ、余りだわ」
 彼は正体も無く泣頽《なきくづ》れつつ、寄らんとするを貫一は突退《つきの》けて、
「操《みさを》を破れば奸婦ぢやあるまいか」
「何時《いつ》私が操を破つて?」
「幾許《いくら》大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻《さい》が操を破る傍《そば》に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴《れき》とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所《よそ》の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処《どこ》に在る?」
「さう言はれて了《しま》ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等《わたしたち》が此地《こつち》に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ」
 宮はその唇《くちびる》に釘《くぎ》打たれたるやうに再び言《ことば》は出《い》でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過《あやまち》を悔い、罪を詫《わ》びて、その身は未《おろ》か命までも己《おのれ》の欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰《こころひそか》に望みたりしならん。如何《いか》にぞや、彼は露ばかりもさせる気色《けしき》は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変《こころがはり》を、貫一はなかなか信《まこと》しからず覚ゆるまでに呆《あき》れたり。
 宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛《いとをし》みし人は芥《あくた》の如く我を悪《にく》めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤《いかり》は彼の胸を劈《つんざ》きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖《くら》ひて、この熱膓《ねつちよう》を冷《さま》さんとも思へり。忽《たちま》ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪《えた》へずして尻居に僵《たふ》れたり。
 宮は見るより驚く遑《いとま》もあらず、諸共《もろとも》に砂に塗《まび》れて掻抱《かきいだ》けば、閉ぢたる眼《まなこ》より乱落《はふりお》つる涙に浸れる灰色の頬《ほほ》を、月の光は悲しげに彷徨《さまよ》ひて、迫れる息は凄《すさまし》く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後《うしろ》より取縋《とりすが》り、抱緊《いだきし》め、撼動《ゆりうごか》して、戦《をのの》く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
 貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇《ねんごろ》に拭《ぬぐ》ひたり。
「吁《ああ》、宮《みい》さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処《どこ》でこの月を見るのだか! 再来年《さらいねん》の今月今夜……十年|後《のち》の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
 宮は挫《ひし》ぐばかりに貫一に取着きて、物狂《ものぐるはし》う咽入《むせびい》りぬ。
「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚《なか》の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余《あんま》り言難
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