》く其処《そこ》を考へて見てくれ。
私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直《すぐ》に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番《ひとつ》奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少《すこ》しのところを辛抱して、いつその事|博士《はかせ》になつて喜ばしてくれんか」
彼はさも思ひのままに説完《ときおほ》せたる面色《おももち》して、寛《ゆたか》に髯《ひげ》を撫《な》でてゐたり。
貫一は彼の説進むに従ひて、漸《やうや》くその心事の火を覩《み》るより明《あきらか》なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄《ろう》して倦《う》まざるは、畢竟《ひつきよう》利の一字を掩《おほ》はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢《けが》れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或《あるひ》は穢れたる念を起し、或は穢れたる行《おこなひ》を為《な》すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈《あに》穢れたるの最も大なる者ならずや。
世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独《ひと》り汚《けがれ》に染《そ》みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子《みなしご》を養へる志は、これを証して余《あまり》あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷《むご》くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯《ただ》一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐《いとし》き宮が事を思へるなり。
我の愛か、死をもて脅《おびやか》すとも得て屈すべからず。宮が愛か、某《なにがし》の帝《みかど》の冠《かむり》を飾れると聞く世界|無双《ぶそう》の大金剛石《だいこんごうせき》をもて購《あがな》はんとすとも、争《いか》でか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥《おでい》の中《うち》に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱《いだ》きて、この世の渾《すべ》て穢れたるを忘れん。
貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨《うらめ》しとは思ひつつも、枉《ま》げてさあらぬ体《てい》に聴きゐたるなりけり。
「それで、この話は宮《みい》さんも知つてゐるのですか」
「薄々《うすうす》は知つてゐる」
「では未《ま》だ宮《みい》さんの意見は御聞にならんので?」
「それは、何だ、一寸《ちよつと》聞いたがの」
「宮さんはどう申してをりました」
「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様《おとつさん》や御母様《おつかさん》の宜《よろし》いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸《やうや》く得心がいつたのだ」
断じて詐《いつはり》なるべしと思ひながらも、貫一の胸は跳《をど》りぬ。
「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」
「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私《わし》の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」
「はい」
「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」
「はい」
「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉《くはし》い事は何《いづ》れ又|寛緩《ゆつくり》話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々《いろいろ》考へて置くが可《い》いの」
「はい」
第 七 章
熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日|漸《やうや》く一月の半《なかば》を過ぎぬるに、梅林《ばいりん》の花は二千本の梢《こずゑ》に咲乱れて、日に映《うつろ》へる光は玲瓏《れいろう》として人の面《おもて》を照し、路《みち》を埋《うづ》むる幾斗《いくと》の清香《せいこう》は凝《こ》りて掬《むす》ぶに堪《た》へたり。梅の外《ほか》には一木《いちぼく》無く、処々《ところどころ》の乱石の低く横《よこた》はるのみにて、地は坦《たひらか》に氈《せん》を鋪《し》きたるやうの芝生《しばふ》の園の中《うち》を、玉の砕けて迸《ほとばし》り、練《ねりぎぬ》の裂けて飜《ひるがへ》る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗《うららか》に霽《は》れたる空を攅《さ》してその頂《いただき》に方《あた》りて懶《ものう》げに懸《かか》れる雲は眠《ねむ》るに似たり。習《そよ》との風もあらぬに花は頻《しきり》に散りぬ。散る時に軽《かろ》く舞ふを鶯《うぐひす》は争ひて歌へり。
宮は母親と連立ちて入来《いりきた》りぬ。彼等は橋を渡
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