いあげ》まゐらせ候。世間には随分賢からぬ者の好き地位を得て、時めかし居り候も少からぬを見るにつけ、何故《なにゆゑ》御前様《おんまへさま》には然《さ》やうの善からぬ業《わざ》を択《より》に択りて、折角の人に優《すぐ》れし御身を塵芥《ちりあくた》の中に御捨《おんす》て被遊候《あそばされさふらふ》や、残念に残念に存上《ぞんじあげ》まゐらせ候。
 愚なる私の心得違《こころえちがひ》さへ無御座候《ござなくさふら》はば、始終《しじゆう》御側《おんそば》にも居り候事とて、さやうの思立《おもひたち》も御座候節《ござさふらふせつ》に、屹度《きつと》御諌《おんいさ》め申候事も叶《かな》ひ候ものを、返らぬ愚痴ながら私の浅はかより、みづからの一生を誤り候のみか、大事の御身までも世の廃《すた》り物に致させ候かと思ひまゐらせ候へば、何と申候私の罪の程かと、今更|御申訳《おんまをしわけ》の致しやうも無之《これなく》、唯そら可恐《おそろ》しさに消えも入度《いりた》く存《ぞんじ》まゐらせ候。御免《おんゆる》し被下度《くだされたく》、御免し被下度《くだされたく》、御免し被下度候。
 私は何故《なにゆゑ》富山に縁付き申候や、其気《そのき》には相成申候や、又何故御前様の御辞《おんことば》には従ひ不申《まをさず》候や、唯今《ただいま》と相成候て考へ申候へば、覚めて悔《くやし》き夢の中のやうにて、全く一時の迷とも可申《まをすべく》、我身ながら訳解らず存じまゐらせ候。二つ有るものの善きを捨て、悪《あし》きを取り候て、好んで箇様《かよう》の悲き身の上に相成候は、よくよく私に定り候運と、思出《おもひいだ》し候ては諦《あきら》め居り申候。
 其節御前様の御腹立《おんはらだち》一層強く、私をば一打《ひとうち》に御手に懸け被下候《くだされさふら》はば、なまじひに今の苦艱《くげん》は有之間敷《これあるまじく》、又さも無く候はば、いつそ御前様の手籠《てごめ》にいづれの山奥へも御連れ被下候《くだされさふら》はば、今頃は如何なる幸《さいはひ》を得候事やらんなど、愚なる者はいつまでも愚に、始終愚なる事のみ考居《かんがへを》り申候。
 嬉くも御赦《おんゆるし》を得、御心解けて、唯二人熱海に遊び、昔の浜辺に昔の月を眺《なが》め、昔の哀《かなし》き御物語を致し候はば、其の心の内は如何に御座候やらん思ふさへ胸轟《むねとどろ》き、書く手も震ひ申候。今も彼《か》の熱海に人は参り候へども、そのやうなる楽《たのしみ》を持ち候ものは一人も有之《これある》まじく、其代《そのかはり》には又、私如《わたくしごと》き可憐《あはれ》の跡を留め候て、其の一夜《いちや》を今だに歎き居り候ものも決して御座あるまじく候。
 世をも身をも捨て居り候者にも、猶《なほ》肌身放《はだみはな》さず大事に致候宝は御座候。それは御遺置《おんのこしおき》の三枚の御写真にて何見ても楽み候はぬ目にも、是《これ》のみは絶えず眺め候て、少しは憂さを忘れ居りまゐらせ候。いつも御写真に向ひ候へば、何くれと当時の事|憶出《おもひだ》し候中に、うつつとも無く十年|前《ぜん》の心に返り候て、苦き胸も暫《しばし》は涼《すずし》く相成申候。最も所好《すき》なるは御横顔の半身のに候へども、あれのみ色褪《いろさ》め、段々薄く相成候が、何より情無く存候へども、長からぬ私の宝に致し候間は仔細も有るまじく、亡《な》き後には棺の内に歛《をさ》めもらひ候やう、母へは其《それ》を遺言に致候覚悟に御座候。
 ある女世に比無《たぐひな》き錦《にしき》を所持いたし候処《さふらふところ》、夏の熱き盛《さかり》とて、差当《さしあた》り用無く思ひ候不覚より、人の望むままに貸与へ候後は、いかに申せども返さず、其内に秋過ぎ、冬来《ふゆきた》り候て、一枚の曠着《はれぎ》さへ無き身貧に相成候ほどに、いよいよ先の錦の事を思ひに思ひ候へども、今は何処《いづこ》の人手に渡り候とも知れず、日頃それのみ苦に病み、慨《なげ》き暮し居り候折から、さる方にて計らず一人の美き女に逢ひ候処、彼《か》の錦をば華《はなや》かに着飾り、先の持主とも知らず貧き女の前にて散々《さんざん》ひけらかし候上に、恥まで与へ候を、彼女《かのをんな》は其身の過《あやまり》と諦《あきら》め候て、泣く泣く無念を忍び申候事に御座候が、其錦に深き思の繋《かか》り候ほど、これ見よがしに着たる女こそ、憎くも、悔《くやし》くも、恨《うらめし》くも、謂はうやう無き心の内と察せられ申候。
 先達而《せんだつて》は御許《おんもと》にて御親類のやうに仰せられ候御婦人に御目に掛りまゐらせ候。毎日のやうに御出《おんい》で被成候《なされさふらふ》て、御前様の御世話《おんせわ》万事|被遊候《あそばされさふらふ》御方《おんかた》の由《よし》に候へば、後にて御前様さぞさぞ御
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