遙《はるか》に木隠《こがくれ》の音のみ聞えし流の水上《みなかみ》は浅く露《あらは》れて、驚破《すは》や、ここに空山《くうざん》の雷《いかづち》白光《はつこう》を放ちて頽《くづ》れ落ちたるかと凄《すさま》じかり。道の右は山を※[#「※」は「劉」の「金」の代わりに「亞」、402−12]《き》りて長壁と成し、石幽《いしゆう》に蘚碧《こけあを》うして、幾条《いくすぢ》とも白糸を乱し懸けたる細瀑小瀑《ほそたきこたき》の珊々《さんさん》として濺《そそ》げるは、嶺上《れいじよう》の松の調《しらべ》も、定《さだめ》てこの緒《を》よりやと見捨て難し。
俥を駆《か》りて白羽坂《しらはざか》を踰《こ》えてより、回顧橋《みかへりばし》に三十尺の飛瀑《ひばく》を※[#「※」は「足+喬」、402−14]《ふ》みて、山中の景は始て奇なり。これより行きて道有れば、水有り、水有れば、必ず橋有り、全渓にして三十橋、山有れば巌有《いはあ》り、巌有れば必ず瀑《たき》有り、全嶺《ぜんれい》にして七十瀑。地有れば泉有り、泉有れば必ず熱有り、全村にして四十五湯。猶《なほ》数ふれば十二勝、十六名所、七不思議、誰《たれ》か一々|探《さぐ》り得べき。
抑《そもそ》も塩原の地形たる、塩谷郡《しおやごおり》の南より群峰の間を分けて深く西北に入《い》り、綿々として箒川《ははきがわ》の流に沂《さかのぼ》る片岨《かたそば》の、四里に岐《わか》れ、十一里に亙《わた》りて、到る処|巉巌《ざんがん》の水を夾《はさ》まざる無きは、宛然《さながら》青銅の薬研《やげん》に瑠璃末《るりまつ》を砕くに似たり。先づ大網《おほあみ》の湯を過《すぐ》れば、根本山《ねもとやま》、魚止滝《うおどめのたき》、児《ちご》ヶ淵《ふち》、左靱《ひだりうつぼ》の険は古《ふ》りて、白雲洞《はくうんどう》は朗《ほがらか》に、布滝《ぬのだき》、竜《りゆう》ヶ鼻《はな》、材木石《ざいもくいし》、五色石《ごしきせき》、船岩《ふないわ》なんどと眺行《ながめゆ》けば、鳥井戸《とりいど》、前山《まえやま》の翠衣《みどりころも》に染みて、福渡《ふくわた》の里に入《い》るなり。
途《みち》すがら前面《むかひ》の崖《がけ》の処々《ところどころ》に躑躅《つつじ》の残り、山藤の懸れるが、甚《はなは》だ興有りと目留まれば、又この辺《あたり》殊《こと》に谿浅《たにあさ》く、水澄みて、大いなる古鏡《こきよう》の沈める如く、深く蔽《おほ》へる岸樹《がんじゆ》は陰々として眠るに似たり。貫一は覚えず踏止りぬ。
かの逆巻《さかま》く波に分け入りし宮が、息絶えて浮び出でたりし其処《そこ》の景色に、似たりとも酷《はなは》だ似たる岸の布置《たたずまひ》、茂《しげり》の状況《ありさま》、乃至《ないし》は漾《たた》ふる水の文《あや》も、透徹《すきとほ》る底の岩面《いはづら》も、広さの程も、位置も、趣《おもむき》も、子細に看来《みきた》ればいよいよ差《たが》はず。
彼は眦《まなじり》を決《さ》きて寒慄《かんりつ》せり。
怪《あやし》むべき哉《かな》、曾《かつ》て経《へ》たりし塲《ところ》をそのままに夢むる例《ためし》は有れ、所拠《よりどころ》も無く夢みし跡を、歴々《まざまざ》とかく目前に見ると云ふも有る事か。宮の骸《むくろ》の横《よこた》はりし処も、又は己《おのれ》の追来《おひき》し筋も、彼処《かしこ》よ、此処《ここ》よと、陰《ひそか》に一々|指《ゆびさ》しては、限無《かぎりな》く駭《おどろ》けるなり。
車夫を顧みて、処の名を問へば、不動沢《ふどうざわ》と言ふ。
物可恐《ものおそろ》しげなる沢の名なるよ。げに思へば、人も死ぬべき処の名なり。我も既に死なんとせしがと、さすが現《うつつ》の身にも沁《し》む時、宮にはあらで山百合《やまゆり》の花なりし怪異を又|懐《おも》ひて、彼は肩頭《かたさき》寒く顫《ふる》ひぬ。
卒《にはか》に踵《きびす》を回《かへ》して急げば、行路《ゆくて》の雲間に塞《ふさが》りて、咄々《とつとつ》、何等《なんら》の物か、と先《まづ》驚《おどろ》かさるる異形《いぎよう》の屏風巌《びようぶいは》、地を抜く何百|丈《じよう》と見挙《みあぐ》る絶頂には、はらはら松も危《あやふ》く立竦《たちすく》み、幹竹割《からたけわり》に割放《さきはな》したる断面は、半空《なかそら》より一文字に垂下《すいか》して、岌々《きゆうきゆう》たるその勢《いきほひ》、幾《ほとん》ど眺《なが》むる眼《まなこ》も留《とま》らず。
貫一は惘然《ぼうぜん》として佇《たたず》めり。
彼が宮を追ひて転《まろ》び落ちたりし谷間の深さは、正《まさ》にこの天辺《てつぺん》の高きより投じたらんやうに、冉々《せんせん》として虚空を舞下《まひくだ》る危惧《きぐ》の堪難《たへがた》かりしを想へ
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