さめざめ》と泣出《なきいだ》せり。呆《あき》れ果てたる直行は金壺眼《かなつぼまなこ》を凝《こら》してその泣くを眺むる外はあらざりけり。
彼は泣きて泣きて止まず。
「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、私《わし》に用と云ふのは?」
朽木の自《おのづか》ら頽《くづ》れ行くらんやうにも打萎《うちしを》れて見えし老女は、猛然《もうねん》として振仰ぎ、血声を搾《しぼ》りて、
「この大騙《おほかたり》め!」
「何ぢやと!」
「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之《まさゆき》のやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国《かいのくに》の住人|武田大膳太夫《たけだだいぜんだゆう》信玄入道《しんげんにゆうどう》、田夫野人《でんぷやじん》の為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井《かしわい》の鈴《すう》ちやんがお嫁に来てくれれば、私《わたし》の仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てる藪《やぶ》は有つても、懲役に遣る親は無いぞ。二十七にはなつても世間|不見《みず》のあの雅之、能《よ》うも能うもおのれは瞞《だま》したな! さあ、さあさ讐《かたき》を討つから立合ひなさい」
直行は舌を吐きて独語《ひとりご》ちぬ。
「あ、いよいよ気違じやわい」
見る見る老女の怒《いかり》は激して、形相《ぎようそう》漸くおどろおどろしく、物怪《もののけ》などの※[#「※」は「馮/几」、263−5]《つ》いたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯の疎《まばら》なるを牙《きば》の如く露《あらは》して、一念の凝《こ》れる眸《まなじり》は直行の外《ほか》を見ず、
「歿《なくな》られた良人《つれあひ》から懇々《くれぐれ》も頼まれた秘蔵の秘蔵の一人子《ひとりつこ》、それを瞞しておのれが懲役に遣つたのだ。此方《このほう》を女と侮《あなど》つてさやうな不埒《ふらち》を致したか。長刀《なぎなた》の一手も心得てゐるぞよ。恐入つたか」
彼は忽《たちま》ちさも心地快《ここちよ》げに笑へり。
「さうあらうとも、赦《ゆる》します。内には鈴《すう》ちやんが今日を曠《はれ》と着飾つて、その美しさと謂ふものは! ほんにまああんな縹致《きりよう》と云ひ、気立と云ひ、諸芸も出来れば、読《よみ》、書《かき》、針仕事《はりしごと》、そんなことは言つてゐるところではない。頸《くび》を長くして待つてお在《いで》だのに、早く帰つて来ないと云ふ法が有るものですか。大きにまあお世話様でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、履物《はきもの》はここに在るよ。なあに、おまへ私はね、※[#「※」は「さんずい+氣」、263−15]車《きしや》で行くから訳は無いとも」
かく言ふ間も忙《せは》しげに我が靴を脱ぎて、其処《そこ》に直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結《なかゆひ》を釈きて、直行が前に上掛《うはがけ》の油紙を披《ひろ》げたり。
「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。直《ぢき》に落ちるから、早く落してお了ひなさい」
さすがに持扱《もてあつか》ひて直行の途方に暮れたるを、老女は目を纖《ほそ》めて、何処《いづこ》より出づらんやとばかり世にも奇《あやし》き声を発《はな》ちて緩《ゆる》く笑ひぬ。彼は謂知《いひし》らぬ凄気《せいき》に打れて、覚えず肩を聳《そびや》かせり。
懲役と言ひ、雅之と言ふに因《よ》りて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之《あくらまさゆき》は、私書偽造罪を以《も》つて彼の被告としてこの十数日|前《ぜん》、罰金十円、重禁錮《じゆうきんこ》一箇年に処せられしなり。実《げ》にその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。
爾思《しかおも》へりしのみにて直行はその他に猶《なほ》も思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼の謀《はか》りて陥れたるなり。
彼等の用ゐる悪手段の中《うち》に、人の借《か》るを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合《はなしあひ》の上は貸さんと称《とな》へて先《ま》づ誘《いざな》ひ、然《しか》る後、但《ただ》し証書の体《てい》を成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然《しかるべ》き親族|知己《しるべ》などの名義を私用して、在合ふ印章を捺《お》さしめ、固《もと》より懇意上の内約なればその偽《いつはり》なるを咎《とが》めず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、一《いつ》は焦眉《しようび》の急に迫り、一《いつ》は期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息《こそく》して、この術中には陥るなりけり。
期に※[#「
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