に引承《ひきう》けて万端の世話せしに因《よ》るなり。孤児《みなしご》の父は隆三の恩人にて、彼は聊《いささ》かその旧徳に報ゆるが為に、啻《ただ》にその病めりし時に扶助せしのみならず、常に心着《こころづ》けては貫一の月謝をさへ間《まま》支弁したり。かくて貧き父を亡《うしな》ひし孤児《みなしご》は富める後見《うしろみ》を得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き生時《せいじ》を以《もつ》て慊《あきた》らず思ひければ、とかくはその忘形見を天晴《あつぱれ》人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。
亡《な》き人常に言ひけるは、苟《いやし》くも侍の家に生れながら、何の面目《めんぼく》ありて我子貫一をも人に侮《あなど》らすべきや。彼は学士となして、願くは再び四民《しみん》の上《かみ》に立たしめん。貫一は不断にこの言《ことば》を以《も》て警《いまし》められ、隆三は会ふ毎にまたこの言を以《も》て喞《かこ》たれしなり。彼は言《ものい》ふ遑《いとま》だに無くて暴《にはか》に歿《みまか》りけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者として陰《ひそか》に疎《うと》まるる如き憂目《うきめ》に遭《あ》ふにはあらざりき。憖《なまじ》ひ継子《ままこ》などに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ幾許《いかばかり》か幸《さいはひ》は多からんよ、と知る人は噂《うはさ》し合へり。隆三夫婦は実《げ》に彼を恩人の忘形見として疎《おろそか》ならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、漸《やうや》くその心は出《い》で来《き》て、彼の高等中学校に入《い》りし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
貫一は篤学のみならず、性質も直《すぐ》に、行《おこなひ》も正《ただし》かりければ、この人物を以つて学士の冠を戴《いただ》かんには、誠に獲易《えやす》からざる婿なるべし、と夫婦は私《ひそか》に喜びたり。この身代《しんだい》を譲られたりとて、他姓《たせい》を冒《をか》して得謂《えい》はれぬ屈辱を忍ばんは、彼の屑《いさぎよ》しと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したる懽《よろこび》を懐《いだ》きて、益《ますます》学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる半《なかば》には過ぎざらん。彼は自らその色好《いろよき》を知ればなり。世間の女の誰《たれ》か自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るに過《すぐ》るに在り。謂《い》ふ可くんば、宮は己《おのれ》が美しさの幾何《いかばかり》値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして纔《わづか》に箇程《かほど》の資産を嗣《つ》ぎ、類多き学士|風情《ふぜい》を夫に有たんは、決して彼が所望《のぞみ》の絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤《びせん》より出《い》でし例《ためし》寡《すくな》からざるを見たり。又は富人の醜き妻を厭《いと》ひて、美き妾《めかけ》に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴《ふうき》を得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干《そくばく》を見たりしに、その容《かたち》の己《おのれ》に如《し》かざるものの多きを見出《みいだ》せり。剰《あまつさ》へ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件《ひとつ》最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の歳《とし》に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸《ドイツ》人は彼の愛らしき袂《たもと》に艶書《えんしよ》を投入れぬ。これ素《もと》より仇《あだ》なる恋にはあらで、女夫《めをと》の契《ちぎり》を望みしなり。殆《ほとん》ど同時に、院長の某《なにがし》は年四十を踰《こ》えたるに、先年その妻を喪《うしな》ひしをもて再び彼を娶《めと》らんとて、密《ひそか》に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
この時彼の小《ちひさ》き胸は破れんとするばかり轟《とどろ》けり。半《なかば》は曾《かつ》て覚えざる可羞《はづかしさ》の為に、半は遽《にはか》に大《おほい》なる希望《のぞみ》の宿りたるが為に。彼はここに始めて己《おのれ》の美しさの寡《すくな》くとも奏任以上の地位ある名流をその夫《つま》に値《あた》ひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、牆《かき》を隣れる男子部《だんじぶ》の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
若《もし》かのプロフェッサアに添
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