》されざりしを本意無《ほいな》く思へるなるべし。又或者は彼の即死せざりしをも物足らず覚ゆるなるべし。下手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣より為《な》せる業《わざ》ならんとは、諸新聞の記《しる》せる如く、人も皆思ふところなりけり。
 直行は今朝病院へ見舞に行きて、妻は患者の容体を案じつつ留守せるなり。夫婦は心を協《あは》せて貫一の災難を悲《かなし》み、何程の費《つひえ》をも吝《をし》まず手宛《てあて》の限を加へて、少小《すこし》の瘢《きず》をも遺《のこ》さざらんと祈るなりき。
 股肱《ここう》と恃《たの》み、我子とも思へる貫一の遭難を、主人はなかなかその身に受けし闇打《やみうち》のやうに覚えて、無念の止み難く、かばかりの事に屈する鰐淵ならぬ令見《みせしめ》の為に、彼が入院中を目覚《めざまし》くも厚く賄《まかな》ひて、再び手出しもならざらんやう、陰《かげ》ながら卑怯者《ひきようもの》の息の根を遏《と》めんと、気も狂《くるはし》く力を竭《つく》せり。
 彼の妻は又、やがてはかかる不慮の事の夫の身にも出《い》で来《きた》るべきを思過《おもひすご》して、若《も》しさるべからんには如何《いか》にか為《す》べき、この悲しさ、この口惜《くちを》しさ、この心細さにては止《や》まじと思ふに就けて、空可恐《そらおそろし》く胸の打騒ぐを禁《とど》め得ず。奉公大事ゆゑに怨《うらみ》を結びて、憂き目に遭《あ》ひし貫一は、夫の禍《わざはひ》を転じて身の仇《あだ》とせし可憫《あはれ》さを、日頃の手柄に増して浸々《しみじみ》難有《ありがた》く、かれを念《おも》ひ、これを思ひて、絶《したたか》に心弱くのみ成行くほどに、裏に愧《は》づること、懼《おそ》るること、疚《やまし》きことなどの常に抑《おさ》へたるが、忽《たちま》ち涌立《わきた》ち、跳出《をどりい》でて、その身を責むる痛苦に堪《た》へざるなりき。
 年久く飼《かは》るる老猫《ろうみよう》の凡《およ》そ子狗《こいぬ》ほどなるが、棄てたる雪の塊《かたまり》のやうに長火鉢《ながひばち》の猫板《ねこいた》の上に蹲《うづくま》りて、前足の隻落《かたしおと》して爪頭《つまさき》の灰に埋《うづも》るるをも知らず、※[#「※」は「鼻+句」、194−13]《いびき》をさへ掻《か》きて熟睡《うまい》したり。妻はその夜の騒擾《とりこみ》、次の日の気労《きづかれ》に、血の道を悩める心地《ここち》にて、※[#「※」は「りっしんべん+(夢−夕)/目」、194−14]々《うつらうつら》となりては驚かされつつありける耳元に、格子《こうし》の鐸《ベル》の轟《とどろ》きければ、はや夫の帰来《かへり》かと疑ひも果てぬに、紙門《ふすま》を開きて顕《あらは》せる姿は、年紀《としのころ》二十六七と見えて、身材《たけ》は高からず、色やや蒼《あを》き痩顔《やせがほ》の険《むづか》しげに口髭逞《くちひげたくまし》く、髪の生《お》ひ乱れたるに深々《ふかふか》と紺ネルトンの二重外套《にじゆうまわし》の襟《えり》を立てて、黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。高き鼻に鼈甲縁《べつこうぶち》の眼鏡を挿《はさ》みて、稜《かど》ある眼色《まなざし》は見る物毎に恨あるが如し。
 妻は思設けぬ面色《おももち》の中に喜を漾《たた》へて、
「まあ直道《ただみち》かい、好くお出《いで》だね」
 片隅《かたすみ》に外套《がいとう》を脱捨つれば、彼は黒綾《くろあや》のモオニングの新《あたらし》からぬに、濃納戸地《こいなんどじ》に黒縞《くろじま》の穿袴《ズボン》の寛《ゆたか》なるを着けて、清《きよら》ならぬ護謨《ゴム》のカラ、カフ、鼠色《ねずみいろ》の紋繻子《もんじゆす》の頸飾《えりかざり》したり。妻は得々《いそいそ》起ちて、その外套を柱の折釘《をりくぎ》に懸けつ。
「どうも取んだ事で、阿父《おとつ》さんの様子はどんな? 今朝新聞を見ると愕《おどろ》いて飛んで来たのです。容体《ようだい》はどうです」
 彼は時儀を叙《の》ぶるに※[#「※」は「しんにょう+台」、195−9]《およ》ばずして忙《せは》しげにかく問出《とひい》でぬ。
「ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうも作《なさ》りはしないわね」
「はあ? 坂町で大怪我《おほけが》を為《なす》つて、病院へ入つたと云ふのは?」
「あれは間《はざま》さ。阿父さんだとお思ひなの? 可厭《いや》だね、どうしたと云ふのだらう」
「いや、さうですか。でも、新聞には歴然《ちやん》とさう出てゐましたよ」
「それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは先之《さつき》病院へ見舞にお出掛だから、間も無くお帰来《かへり》だらう。まあ寛々《ゆつくり》してお在《いで》な」
 かくと聞ける直道は余《あまり》の不意に拍子抜して、喜びも得為《えせ》ず唖然《あぜ
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