勁敵《けいてき》に遇《あ》ひ、悪徒に罹《かか》りて、或は弄《もてあそ》ばれ、或は欺かれ、或は脅《おびやか》され勢《いきほひ》毒を以つて制し、暴を以つて易《か》ふるの已《や》むを得ざるより、一《いつ》はその道の習に薫染して、彼は益《ますま》す懼《おそ》れず貪《むさぼ》るに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼を撻《むちう》つやうに募ることありて、心も消々《きえきえ》に悩まさるる毎に、齷※[#「※」は「齒+昔」、181−1]《あくさく》利を趁《お》ふ力も失せて、彼はなかなか死の安きを懐《おも》はざるにあらず。唯その一旦にして易《やす》く、又今の空《むなし》き死を遂《と》げ了《をは》らんをば、いと効為《かひな》しと思返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう一度《ひとたび》前《さき》の失望と恨とを霽《はら》し得て、胸裡《きようり》の涼きこと、氷を砕いて明鏡を磨《と》ぐが如く為ざらん、その夕《ゆふべ》ぞ我は正《まさ》に死ぬべきと私《ひそか》に慰むるなりき。
貫一は一《いつ》はかの痛苦を忘るる手段として、一《いつ》はその妄執《もうしゆう》を散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利を貪《むさぼ》れるなり。知らず彼がその夕《ゆふべ》にして瞑《めい》せんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常|復讐《ふくしゆう》の小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今|少《すこし》く事の大きく男らしくあらんをば企図《きと》せるなり。然れども、痛苦の劇《はげし》く、懐旧の恨に堪《た》へざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如く嘆《かこ》ちぬ。
「※[#「※」は「口+矣」、181−10]《ああ》、こんな思を為るくらゐなら、いつそ潔く死んだ方が夐《はるか》に勝《まし》だ。死んでさへ了へば万慮|空《むなし》くこの苦艱《くげん》は無いのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死ぬのは易《やす》いが、死ぬことの出来んのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのままに胸に納めて死ぬことは出来んのだ。貨《かね》が有つたら何が面白いのだ。人に言はせたら、今|俺《おれ》の貯《たくは》へた貨《かね》は、高が一人の女の宮に換へる価はあると謂《い》ふだらう。俺には無い! 第一|貨《かね》などを持つてゐるやうな気持さへ為《せ》んぢやないか。失望した身にはその望を取復《とりかへ》すほどの宝は無いのだ。※[#「※」は「口+矣」、181−15]《ああ》、その宝は到底取復されん。宮が今罪を詑《わ》びて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身まで涜《けが》された宮は、決して旧《もと》の宮ではなければ、もう間《はざま》の宝ではない。間の宝は五年|前《ぜん》の宮だ。その宮は宮の自身さへ取復す事は出来んのだ。返す返す恋《こひし》いのは宮だ。かうしてゐる間《ま》も宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、噫《ああ》、鴫沢の宮! 五年|前《ぜん》の宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮は獲《え》られんのだ! 思へば貨《かね》もつまらん。少《すくな》いながらも今の貨《かね》が熱海へ追つて行つた時の鞄《かばん》の中に在つたなら……ええ!!」
頭《かしら》も打割るるやうに覚えて、この以上を想ふ能《あた》はざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見《たずみ》の底に逍遙《しようよう》せし富山が妻との姿は、双々《そうそう》貫一が身辺を彷徨《ほうこう》して去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、仮《か》さざること仇敵《きゆうてき》の如く、債務を逼《せま》りて酷を極《きは》むるなり。退《しりぞ》いてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、忽《たちま》ち勢に駆られて断行するを憚《はばか》らざるなり。かくして彼の心に拘《かかつら》ふ事あれば、自《おのづか》ら念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、素《もと》より彼は正《せい》を知らずして邪を為し、是《ぜ》を喜ばずして非《ひ》を為すものにあらざれば、己《おのれ》を抂《ま》げてこれを行ふ心苦しさは俯《ふ》して愧《は》ぢ、仰ぎて懼《おそ》れ、天地の間に身を置くところは、纔《わづか》にその容《い》るる空間だに猶濶《なほひろ》きを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、夐《はるか》に忍ぶの易く、体《たい》のまた胖《ゆたか》なるをさへ感ずるなりけり。
一向《ひたぶる》に神《しん》を労し、思を費して、日夜これを暢《のぶ》るに遑《いとま》あらぬ貫一は、肉痩《にくや》せ、骨立ち、色疲れて、宛然《さながら》死水《しすい》などのやうに沈鬱し了《をは》んぬ。その攅《
前へ
次へ
全177ページ中64ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング