座敷へお出《いで》あそばして、お休み遊ばしましては如何《いかが》でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼《まつさを》でゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方《あちら》へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可《い》けませんから、お庭を一周《ひとまはり》しまして、その内には気分が復《なほ》りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変|貴方《あなた》のお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰《おつしや》います」
 貴婦人はその無名指《むめいし》より繍眼児《めじろ》の押競《おしくら》を片截《かたきり》にせる黄金《きん》の指環を抜取りて、懐紙《ふところかみ》に包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお証《しるし》に」
 静緒は驚き怖《おそ》れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
「可《よ》うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様《おとつさま》にも阿母様《おつかさま》にも誰にも有仰《おつしや》らないやうに、ねえ」
 受けじと為るを手籠《てごめ》に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋《そたばし》近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑《たかわらひ》するが聞えぬ。
 宮はこの散歩の間に勉《つと》めて気を平《たひら》げ、色を歛《をさ》めて、ともかくも人目を※[#「※」は「しんにょう+官」、138−1]《のが》れんと計れるなり。されどもこは酒を窃《ぬす》みて酔はざらんと欲するに同《おなじ》かるべし。
 彼は先に遭《あ》ひし事の胸に鏤《ゑ》られたらんやうに忘るる能《あた》はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出《もえい》でて、募りに募らんとする心の乱《みだれ》は、堪《た》ふるに難《かた》き痛苦《くるしみ》を齎《もたら》して、一歩は一歩より、胸の逼《せま》ること急に、身内の血は尽《ことごと》くその心頭《しんとう》に注ぎて余さず熬《い》らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛《うちくつろ》ぎて意任《こころまか》せの我が家に独り居たらんぞ可《よ》き。人に接して強《し》ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩《わづらは》しと、例の劇《はげし》く唇《くちびる》を咬《か》みて止まず。
 築山陰《つきやまかげ》の野路《のぢ》を写せる径《こみち》を行けば、蹈処無《ふみどころな》く地を這《は》ふ葛《くず》の乱れ生《お》ひて、草藤《くさふぢ》、金線草《みづひき》、紫茉莉《おしろい》の色々、茅萱《かや》、穂薄《ほすすき》の露滋《つゆしげ》く、泉水の末を引きて※[#「※」は「鄰−おおざと+巛」、138−9]々《ちよろちよろ》水《みづ》を卑《ひく》きに落せる汀《みぎは》なる胡麻竹《ごまたけ》の一叢《ひとむら》茂れるに隠顕《みえかくれ》して苔蒸《こけむ》す石組の小高きに四阿《あづまや》の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は艱《なやま》しげに憩へり。
 彼は静緒の柱際《はしらぎは》に立ちて控ふるを、
「貴方もお草臥《くたびれ》でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」
 その色の前《さき》にも劣らず蒼白《あをざ》めたるのみならで、下唇の何に傷《きずつ》きてや、少《すこし》く血の流れたるに、彼は太《いた》く驚きて、
「あれ、お唇から血が出てをります。如何《いかが》あそばしました」
 ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴《ざくろ》の花弁《はなびら》の如く附きたるに、貴婦人は懐鏡《ふところかがみ》取出《とりいだ》して、咬《か》むことの過ぎし故《ゆゑ》ぞと知りぬ。実《げ》に顔の色は躬《みづから》も凄《すご》しと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周《いくめぐり》して我はこの色を隠さんと為《す》らんと、彼は心陰《こころひそか》に己《おのれ》を嘲《あざけ》るなりき。
 忽《たちま》ち女の声して築山の彼方《あなた》より、
「静緒さん、静緒さん!」
 彼は走り行き、手を鳴して応《こた》へけるが、やがて木隠《こがくれ》に語《かたら》ふ気勢《けはひ》して、返り来ると斉《ひとし》く賓《まらうど》の前に会釈して、
「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直《すぐ》に彼方《あちら》へお出《いで》あそばしますやうに」
「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」
 道を転じて静緒は雲帯橋《うんたいきよう》の在る方《かた》へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭《ところせま》きまで盃盤《はいばん》を陳《つら》ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。
 此方《こなた》の姿を見るより子爵は縁先に出でて麾《さしまね》きつつ、
「そこをお渡りになつて、此方《こちら》に燈籠《とうろ
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