れ一度《ひとたび》はこの紳士と組みて、世に愛《めで》たき宝石に咫尺《しせき》するの栄を得ばや、と彼等の心々《こころごころ》に冀《こひねが》はざるは希《まれ》なりき。人|若《も》し彼に咫尺するの栄を得ば、啻《ただ》にその目の類無《たぐひな》く楽《たのしま》さるるのみならで、その鼻までも菫花《ヴァイオレット》の多く※[#「※」は「鼻+(嗅−口)」、16−2]《か》ぐべからざる異香《いきよう》に薫《くん》ぜらるるの幸《さいはひ》を受くべきなり。
 男たちは自《おのづ》から荒《すさ》められて、女の挙《こぞ》りて金剛石《ダイアモンド》に心牽《こころひか》さるる気色《けしき》なるを、或《あるひ》は妬《ねた》く、或は浅ましく、多少の興を冷《さま》さざるはあらざりけり。独《ひと》り宮のみは騒げる体《てい》も無くて、その清《すずし》き眼色《まなざし》はさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深《たしなみふか》く、心様《こころざま》も幽《ゆかし》く振舞へるを、崇拝者は益々|懽《よろこ》びて、我等の慕ひ参らする効《かひ》はあるよ、偏《ひとへ》にこの君を奉じて孤忠《こちゆう》を全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き面《つら》の皮を引剥《ひきむ》かん、と手薬煉《てぐすね》引いて待ちかけたり。されば宮と富山との勢《いきほひ》はあたかも日月《じつげつ》を並懸《ならべか》けたるやうなり。宮は誰《たれ》と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念《けねん》するところなりけるが、鬮《くじ》の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人《みたり》とともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数《にんず》はこの時合併して一《いつ》の大《おほい》なる団欒《まどゐ》に成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合《となりあひ》に坐りければ、夜と昼との一時《いちじ》に来にけんやうに皆|狼狽《うろたへ》騒ぎて、忽《たちま》ちその隣に自ら社会党と称《とな》ふる一組を出《いだ》せり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。則《すなは》ち彼等は専《もつぱ》ら腕力を用ゐて或組の果報と安寧《あんねい》とを妨害せんと為るなり。又その前面《むかひ》には一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組《ろうぜきぐみ》と称し、右翼を蹂躙隊《じゆうりんたい》と称するも、実は金剛石の鼻柱を挫《くじ》かんと大童《おほわらは》になれるに外《ほか》ならざるなり。果せる哉《かな》、件《くだん》の組はこの勝負に蓬《きたな》き大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白《はなしろ》み、美き人は顔を赧《あか》めて、座にも堪《た》ふべからざるばかりの面皮《めんぴ》を欠《かか》されたり。この一番にて紳士の姿は不知《いつか》見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中には掌《たなぞこ》の玉を失へる心地《ここち》したるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的な轤エる遊戯に怖《おそれ》をなして、密《ひそか》に主《あるじ》の居間に逃帰れるなりけり。
 鬘《かつら》を被《き》たるやうに梳《くしけづ》りたりし彼の髪は棕櫚箒《しゆろぼうき》の如く乱れて、環《かん》の隻《かたかた》※[#「※」は「てへん+宛」、17−4]《も》げたる羽織の紐《ひも》は、手長猿《てながざる》の月を捉《とら》へんとする状《かたち》して揺曳《ぶらぶら》と垂《さが》れり。主は見るよりさも慌《あわ》てたる顔して、
「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」
 彼はやにはに煙管《きせる》を捨てて、忽《ゆるがせ》にすべからざらんやうに急遽《とつかは》と身を起せり。
「ああ、酷《ひど》い目に遭《あ》つた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切《たちき》れないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかり撲《ぶた》れた」
 手の甲の血を吮《す》ひつつ富山は不快なる面色《おももち》して設《まうけ》の席に着きぬ。予《かね》て用意したれば、海老茶《えびちや》の紋縮緬《もんちりめん》の※[#「※」は「ころもへん+因」、17−11]《しとね》の傍《かたはら》に七宝焼《しちほうやき》の小判形《こばんがた》の大手炉《おほてあぶり》を置きて、蒔絵《まきゑ》の吸物膳《すひものぜん》をさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して婢《をんな》を呼び、大急《おほいそぎ》に銚子と料理とを誂《あつら》へて、
「それはどうも飛でもない事を。外《ほか》に何処《どこ》もお怪我《けが》はございませんでしたか」
「そんなに有られて耐《たま》るものかね」
 為《せ》う事無さに主も苦笑《にがわらひ》せり。
「唯今《ただいま》絆創膏《ばんそうこう》を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませ
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