》打ちたる手鞄《てかばん》を取直して、婦人はやをら起上《たちあが》りつ。迷惑は貫一が面《おもて》に顕《あらは》れたり。
「何方《どちら》へ?」
「何方《どちら》でも、私には解りませんですから貴方《あなた》のお宜《よろし》い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有《おつしや》らずに、私は何方でも宜《よろし》いのでございます」
 荒布革《あらめがは》の横長なる手鞄《てかばん》を膝の上に掻抱《かきいだ》きつつ貫一の思案せるは、その宜き方《かた》を択ぶにあらで、倶《とも》に行くをば躊躇《ちゆうちよ》せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
 貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭《であひがしら》に、入来《いりく》る者ありて、その足尖《つまさき》を挫《ひし》げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高《たけたか》き老紳士の目尻も異《あやし》く、満枝の色香《いろか》に惑ひて、これは失敬、意外の麁相《そそう》をせるなりけり。彼は猶懲《なほこ》りずまにこの目覚《めざまし》き美形《びけい》の同伴をさへ暫《しばら》く目送《もくそう》せり。
 二人は停車場《ステエション》を出でて、指す方《かた》も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極《き》めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
 満枝は彼の心進まざるを暁《さと》れども、勉《つと》めて吾意《わがい》に従はしめんと念《おも》へば、さばかりの無遇《ぶあしらひ》をも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻※[#「※」は「魚+麗」、93−2]《うなぎ》は上《あが》りますか」
「鰻※[#「※」は「魚+麗」、93−3]? 遣りますよ」
「鶏肉《とり》と何方が宜《よろし》うございます」
「何方でも」
「余り御挨拶《ごあいさつ》ですね」
「何為《なぜ》ですか」
 この時貫一は始めて満枝の面《おもて》に眼《まなこ》を移せり。百《もも》の媚《こび》を含みて※[#「※」は「目+是」、93−8]《みむか》へし彼の眸《まなじり》は、未《いま》だ言はずして既にその言はんとせる半《なかば》をば語尽《かたりつく》したるべし。彼の為人《ひととなり》を知りて畜生と疎《うと》める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを露《あらは》して片笑《かたゑ》みつつ、
「まあ、何為《なぜ》でも宜うございますから、それでは鶏肉《とり》に致しませうか」
「それも可《い》いでせう」
 三十間堀《さんじつけんぼり》に出でて、二町ばかり来たる角《かど》を西に折れて、唯《と》有る露地口に清らなる門構《かどがまへ》して、光沢消硝子《つやけしガラス》の軒燈籠《のきとうろう》に鳥と標《しる》したる方《かた》に、人目にはさぞ解《わけ》あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺《あたり》に六畳の隠座敷の板道伝《わたりづたひ》に離れたる一間に案内されしも宜《うべ》なり。
 懼《おそ》れたるにもあらず、困《こう》じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色《けしき》にて貫一の容《かたち》さへ可慎《つつま》しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸《おもひか》けざる為体《ていたらく》を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早《いちはや》く満枝が好きに計ひて、少頃《しばし》は言《ことば》無き二人が中に置れたる莨盆《たばこぼん》は子細らしう一|※[#「※」は「火+主」、94−2]《ちゆう》の百和香《ひやつかこう》を燻《くゆ》らせぬ。
「間さん、貴方どうぞお楽に」
「はい、これが勝手で」
「まあ、そんな事を有仰《おつしや》らずに、よう、どうぞ」
「内に居つても私はこの通なのですから」
「嘘《うそ》を有仰《おつしや》いまし」
 かくても貫一は膝《ひざ》を崩《くづ》さで、巻莨入《まきたばこいれ》を取出《とりいだ》せしが、生憎《あやにく》一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先《さきん》じて、
「お間に合せにこれを召上りましな」
 麻蝦夷《あさえぞ》の御主殿持《ごしゆでんもち》とともに薦《すす》むる筒の端《はし》より焼金《やききん》の吸口は仄《ほのか》に耀《かがや》けり。歯は黄金《きん》、帯留は黄金《きん》、指環は黄金《きん》、腕環は黄金《きん》、時計は黄金《きん》、今又|煙管《きせる》は黄金《きん》にあらずや。黄金《きん》なる哉《かな》、金《きん》、金《きん》! 知る可《べ》し、その心も金《きん》! と貫一は独《ひと》り可笑《をか》しさに堪《た》へざりき。
「いや、私は日本莨は一向|可《い》かんので」
 言ひも訖《をは》らぬ顔を満枝は熟《じつ》と視《み》
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