は仕方がない。だから隅に乗ってるのは危険だよ。殊に前方の隅は危険だよ。」
U君の説によれば、前方の隅に腰掛けてると、汽車が急に止った場合には、物理でいう慣性の法則に随って、前方へ身体が激しくのめるので、腰板なんかに頭をひどくぶっつけるそうである。で、臆病な……というより寧ろ臆病癖のあるU君は、決して前方の隅へ腰を下さないのであった。所が私は隅が一番好きであった。それで始発駅から乗った私達は、車室の後方に腰を下し、私は隅にU君は私の横に坐っていた。
車室は込んでいなかった。私達と反対の側には、四五人の海軍士官が居た。その向うの方に、子供をつれた若い夫婦が居た。私達の側の向うに、土木請負師か御用商人かと思われる、三人の男が居た。
汽車は始発駅から四哩足らずを走ったばかりの所であったが、晩夏の曇り日の午後のこととて、皆黙り込んでうとうとしているらしかった。私達も口を噤んでしまった。汽車に向って突進していった男のこと、衝突や脱線の場合のこと、物理でいう慣性の法則のこと、そんなものが意識の奥にぼんやり霞んでゆき、車輪の響きと車体の動揺とに軽く揺られて、遠い夢心地を拵えていった。取り留めもない杳かな想念、窓の外を飛び過ぎる切れ切れの景色、身体に伝わる響きと動揺、而も安らかな静寂……ぽつりぽつりと小さな雨脚が、窓硝子に長く跡を引いていた。
汽笛が鳴ったようだった――それも空耳だったかも知れない。凡てが妙に落付き払っていた。変だなと頭の遠い奥で考えていると、汽車は速力をゆるめていた。やがてごとりと一つ反動をなして止まった。
乗客等はふと我に返ったように互に顔を見合した。停車場でも何でもない野の中である。そういう風に途中で汽車が止まることは、時々あるのだったが、然し何となく不安げな感じが、車室の中に伝わってきた。
「土木請負師」達が、窓から首をつき出して覗いた。私も窓を明けて外を覗いた。一二粒の雨に冷りと頬を打たれた。見ると、次の三等車の窓には乗客の顔がずらりと並んでいた。でもまだ何のことだか分らなかった。
そのうちに、機関車に近い所から、車掌と火夫とが二人下りて来た。列車の下を覗き込みながら、だんだん私達の方へやって来た。「轢死人」という無音の声が何処からとなく皆の耳に伝わってきた。
車掌と火夫とは、私が覗き出してる窓のすぐ下で立ち止まった。二人で何か囁き交した――私には聞えなかった。すると火夫は、いきなり列車の下に屈み込んで、両手を差伸ばしたかと思うと、ずるずると大きな物を引張り出した。……白足袋をはいた小さな足、それから、真白な二本の脛、真白な腿、それから、黒っぽい着物のよれよれに纏いついた臀部、……それから、腰部でぶつりと切れていた、四五寸[#「切れていた、四五寸」は底本では「切れていた。四五寸」]ばかりにゅっとつき出た背骨を中心に、真赤な腰巻が渦のように捩られて、どす黒い血に染んでいた。火夫はそれを無雑作に線路の横の草地に放り出した。捩切られた腰部の切口を、背骨に絡みついてる真赤な腰巻と血肉との切口を、こちらに向けて、真白な完全な円っこい両足が、腿から下は露出したまま、だらりと草地の上に横たわった。
腰から上がないだけに、真白なだけに、完全なだけに、一層不気味な両足だった。
私は窓から身を引いた。向う側の窓から、海軍士官が外を見ていた。私はふらふらと、殆んど何の気もなく、歩いて行ってその窓から覗き出した。十二三間ばかり後の方に、真黒な物が転がっていた。髪を乱した女の頭だった。南瓜のようにごろりと投り出されていた。他には何にも見えなかった。
私はまた自分の窓に戻って来た。見ると、車掌と火夫とは機関車の方へ戻って行って、車室へ上ってしまった。汽笛が一つ鳴った。汽車は進行しだした。腰から下の死体は、線路の傍に放り出されたままだった。眼を外らすと、向うの小川の堤に、六七人の農夫が佇んで、こちらを眺めていた。雨は止んでいた。かすかな風が稲田の面を吹いていた。
私は窓をしめて席についた。皆黙っていた。向うの年若な母親が子供を膝の上に抱き上げて、そのうえからおっ被さるようにして屈み込んでいた。私の頭にはしつこく、真白な二本の足と髪を被った頭とが、ついて廻った。頭と腰との間の胴体はどうなったろう、などと考え初めた。
「サンドウィッチは止した。」とU君が突然云った――私達は二つ三つ後の停車場でサンドウィッチを食うことにしていた――「あの傷口を見てサンドウィッチを思い出した。」
私達は苦笑した。死体の印象と食慾とは反比例するものだった。否、それ所ではなかった。もっと強いものが、頭でも傷口でもなく、真面目な完全な二本の足が、人間の肉体そのものを不気味に感ぜしめた。
間もなく次の停車場へ着いた。車掌が駅長に何か云ってるのが見えた。駅
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