には聞えなかった。すると火夫は、いきなり列車の下に屈み込んで、両手を差伸ばしたかと思うと、ずるずると大きな物を引張り出した。……白足袋をはいた小さな足、それから、真白な二本の脛、真白な腿、それから、黒っぽい着物のよれよれに纏いついた臀部、……それから、腰部でぶつりと切れていた、四五寸[#「切れていた、四五寸」は底本では「切れていた。四五寸」]ばかりにゅっとつき出た背骨を中心に、真赤な腰巻が渦のように捩られて、どす黒い血に染んでいた。火夫はそれを無雑作に線路の横の草地に放り出した。捩切られた腰部の切口を、背骨に絡みついてる真赤な腰巻と血肉との切口を、こちらに向けて、真白な完全な円っこい両足が、腿から下は露出したまま、だらりと草地の上に横たわった。
 腰から上がないだけに、真白なだけに、完全なだけに、一層不気味な両足だった。
 私は窓から身を引いた。向う側の窓から、海軍士官が外を見ていた。私はふらふらと、殆んど何の気もなく、歩いて行ってその窓から覗き出した。十二三間ばかり後の方に、真黒な物が転がっていた。髪を乱した女の頭だった。南瓜のようにごろりと投り出されていた。他には何にも見えなかった。
 私はまた自分の窓に戻って来た。見ると、車掌と火夫とは機関車の方へ戻って行って、車室へ上ってしまった。汽笛が一つ鳴った。汽車は進行しだした。腰から下の死体は、線路の傍に放り出されたままだった。眼を外らすと、向うの小川の堤に、六七人の農夫が佇んで、こちらを眺めていた。雨は止んでいた。かすかな風が稲田の面を吹いていた。
 私は窓をしめて席についた。皆黙っていた。向うの年若な母親が子供を膝の上に抱き上げて、そのうえからおっ被さるようにして屈み込んでいた。私の頭にはしつこく、真白な二本の足と髪を被った頭とが、ついて廻った。頭と腰との間の胴体はどうなったろう、などと考え初めた。
「サンドウィッチは止した。」とU君が突然云った――私達は二つ三つ後の停車場でサンドウィッチを食うことにしていた――「あの傷口を見てサンドウィッチを思い出した。」
 私達は苦笑した。死体の印象と食慾とは反比例するものだった。否、それ所ではなかった。もっと強いものが、頭でも傷口でもなく、真面目な完全な二本の足が、人間の肉体そのものを不気味に感ぜしめた。
 間もなく次の停車場へ着いた。車掌が駅長に何か云ってるのが見えた。駅
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