しまって声も出なかったそうです。自分自身が死の淵に臨んででもいるように、惘然と其処に釘付にされてしまったそうです。見ると、男はやはりレールに寝ているし、汽車は一刻の猶予もなく走って来るのです。そのうちに汽車が一町ばかり先に迫ると、男はまたぱっと飛び起きました。よく誰でも云いますね、鉄道自殺は、その間際に飛び込まなくてはいけないもので、前から線路に寝てなぞ居られるものでないと。その男もやはり寝て居られなかったのでしょう。……友人は男が飛び起きたのを見て、ほっと安心したそうです。所がどうでしょう。その男は、線路から飛び退きもしないで、線路の上に一つ飛び上ったかと思うと、そのまま、進行してくる汽車を目がけて、力一杯に走り出したのです。汽車はもう間近に迫って居ます。こちらからも走って行くのです。声を立てる間もありません。見ていた友人は眼をつぶってしまいました。……眼を開くと、汽車は止まっていて、大勢の人が車窓から首を出しているし、二三人の車掌が線路に沿って歩いています。……友人は後になっても、汽笛一つ聞えなかったのが不思議だと云っていました。そして、汽車に向って突進して行った男の姿が、いつまでも眼の底に刻みつけられているような気がすると、云っていました……。」
 ――私は右の話を、側に腰掛けてるU君にまた話していた。私達の汽車は丁度隧道を出たばかりの所だった。轟然たる響きが、隧道と共に後方に遠ざかっていって、窓硝子にこびりついていた煤煙が、拭うように吹き払われていった。車室内の空気は少し濁っていた。二三の窓が開けられた。凉しい空気が流れ込んできた。
 細かな雨が粗らに落ちていた。車窓から覗くと、黄色くなりかけた稲田、稲田の中の一条の小川、小川の堤の灌木の茂み、その向うの小さな山、それらの上に、薄く曇った午後三時過ぎの空が、低く垂れていた。
「汽車を早く止めたらよかったんだろうがね。」と私は話の終りに云い添えた。「少くとも機関手には遠くから、その男の姿がみえた筈だろうじゃないか。」「そうはゆかないだろう。」とU君は云った。「飛び込む者が居ると前から分って居ても、汽車は急に止めることはないものだよ。なぜって、もし急に止めたら、乗客のうちに幾人も怪我人が出来るし、場合によっては死人が出来るかもしれないからね。一人を見殺しにして大勢を助けるというやりかただよ。然し衝突や脱線の場合に
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