落ちて皿の中で砕けた。
 母はその時涙の一杯たまった眼で美しく微笑んだ。それで私も我知らず微笑んだ。そしたら大変安らかな気分になった。
 私はまだ甚だしく疲労していた。暫く外に出ないがいいと母が云った。それで私は何時も自分の室にとじ籠っていた。もう何処へも出たくなかったのだ。
 私はその時遠くに去ってしまったかの男について自分の記憶を誌しはじめた。それは非常に大切なことだったのだ。はじめは文句も成さなかったのを幾度も書き直した。次第に真実が失われて作為が多くなるような気もした。然しまたそのため私にとっては一層貴くなっていくようにも思えた。
 ある日母がそれを見たいと云った。父の死後私は何にも母に隠さないんだ。だからそれも見せてやった。母はそれを読んでから、眼に一杯涙をためて、これはしまっておいて暫く見ない方がいいよと云った。私はその涙の中にうち震えて泣いている母の魂を見た。それでそれを手文庫の中にしまおうと思った。それはもとから私の家に在った古い金蒔絵のものである。
 私は手文庫の中に書いたものを入れて錠を下した。それは大変いい錠前なんだ。びーんという鉄の音がした。
 その音が私の心の
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