めてつき立ててやる。すっと刄が通る――何処までも深く通ってゆく。そして私は真逆様に深く深く落ちてゆく……。
 ……遠い処から誰かが私を呼んでいる。仄白い明るみが見える。私はその方へ歩いて行く。とふっと私は何かに出逢った。そして私は顔を上げた。
 私は卓子の上にうつ俯していたのだ。私の側に彼の男が腰掛けている。そして私が顔を上げたのを見て、そっと私の手を握った。
 私は思わずぼろぼろと涙を落した。嬉しかったのだ。私も彼の手をじっと握り返してやった。そしたら又涙が落ちた。嬉しかったのだ。
 私は深い処に居た。凡てが生きて動いている。青い明るみが立ち罩めた中に、多くの温い魂が一つの大きい生命のうちに融けて流れる。私達二人が其処に居るんだ。私の心がその大きい生命の流れに融けてゆく。祈るようなそして息づまるような憂が……。私の眼から熱い涙が落ちてくる。
 其時私の前に葡萄酒の瓶と二つのグラスとが置かれていた。彼が私のためにグラスを充してくれた。
 私は一息にその赤い葡萄酒をのみ干した。彼も一息にのんだ。それから私達は黙って幾度も続けて飲んだ。
 その時だ。彼が突然高く笑い出した。その笑が私の頭の中に反響した。そして私の喉から独りで笑いが飛び出してきた。私達は自分を忘れて声を揃え痙攣的の哄笑を続けた。
 笑が静った時、私はそのままじっとして居れなかった。凡てのものが眼に見えない力で私をぐんぐん運んで行くんだ。
「さあ行こう!」と私は云った。
「行こう!」と彼が答えた。
 凡てのことがはっきりと私達には分っていた。彼が勘定をした。そして私達は外に出た。
 私の心に朗かなものが吹き込まれた。空を仰ぐと星が一杯輝いて、私の温い胸の中に飛び込んでくる。空をそして地をじっと心ゆく限り抱きしめたい。みんな私の所有《もの》なんだ。そしてみんな私の涙が流るるような愛の抱擁を待っているんだ。私は其処に身を躍らして飛び上った。
 その時彼が淋しい眼でじっと私を見た。私は危く彼を両腕のうちに抱擁しようとした。そしてはっと自分の懐に懐剣を感じた。
 私はその瞬間ある神秘な喜悦を感じたのだ。それでいきなり彼の手を取った。そして着物の上から懐剣の鞘を彼の手に握らしてやった。
 彼ははっと身を引いた。そして鋭く私の眼の中を見つめた。何だか一言大きい声を彼は立てた。そしてそのまま一散に駈け出した。
 私は惘然
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