やがてぼんやり眼を開くと、天井に一つの眼があって、私の方をじっと眺めている。
 いつも一つの眼だ。二つじゃない。然しそれが少しも不思議でなく、自然なのだ。大きさもいろいろだが、少しも不自然なところはない。だから、形態ははっきりした眼だが、視線と言い換えても差支えないかも知れない。而も、私の方をじっと眺めている。その眺め方に、何の好奇心もなく、ただ執拗さだけがある。だから、それはもはや視線とも言えない。つまり、私の上にぴたりと据えられてる眼眸だ。
 その眼眸の現出を、私はアルコールの作用に帰したり、ヒロポンの作用に帰したり、アドルムの作用に帰したりした。そして酒との別居を真剣に考えるようにもなった。
 だが、驚くべきことには、その眼眸がいつしか、秋子の眼眸と重なり合ってきた。そう言うのも真実ではないようだ。両者が、初めは別々のものだったのか、初めから一つのものだったのか、もう私には分らないのである。両方持ち寄ると少しのずれもなく重なり合うし、実際には別々な場所に存在する。私にとっては、一方を幻覚だとするならば他方も幻覚だし、一方を現実だとするならば他方も現実だし、而もなお、一方は他方の反映でもあり得る。
 憑かれたのだ。私の方が負けである。
 そもそもの出だしがいけなかった。杉幸の二階をかりて座談会を催した、その時からのことだ。
 民間宗教と言うか、異端宗教と言うか、さまざまな信仰が発生し、神がかりの教祖のまわりに信者が集まりつつあった頃で、私の雑誌では、心霊科学研究の大家と文学者と博識者との三人を招いて、なるべく通俗的な面白い鼎談会を催した。速記がすんでから、なお酒を飲みながら、雑談はしぜんに怪奇な方面に向っていった。ばかばかしい話や不思議な話がたくさん出た。
「どうにも合点のゆかないことがあるものです。」と私の同僚の黒田が話した。
 彼は或る夜、したたか酒を飲んで、中央線の終電車で帰途についた。もうバスがなくなっていたので、駅から三キロばかりの道を歩いた。中程に交番があって、そこまでは無事に行けたが、それから先が、いくら歩いても果しなくなった。一本道ではないが、時折歩くこともあるので、迷うわけはないのに、いくら歩いても家に着かない。酒の酔いもさめかけてきて、ただやたらに歩いた。それでも、だんだん家に遠ざかるような気持ちさえして、無限の遠いところに家はあるようだ。道に迷ったのではなく、空間に迷ったという感じだ。それでもなお歩いていると、もしもし、と呼び止められた。巡査が立っていて、どこに行くのかと尋ねられた。気がついてみると、先程たしかに通りすぎた交番の前だ。あなたはここを三度も通った、いったいどこへ行くのか。巡査は[#「巡査は」は底本では「巡者は」]不審そうに訊問する。黒田は頭がはっきりしてきて、自分ながら呆れた。どうやら、ただ大きく迂回していて、交番の前を三度も通って気付かなかったものらしい。狐にばかされる第一歩だったかも知れない、と黒田は告白した。
 東京都内でもそういうことがある。田舎にはもっと不可思議なことが多々ある。狐つきは固より、物の怪の崇りのこと、死霊や生霊のことなど、不可思議さには奥行きが知れない。それがつまり実験談の語るところであった。然しその不可思議さにも限界があって、憑く方のもの、崇る方のものは、実際には存在せず、憑かれる方のもの、崇られる方のもの、即ち人間の精神だけが、実際には存在するのであって、それはもはや精神病理の問題に過ぎないのである。それだけのことを一度承認しておいて、そして心霊研究の大家は、霊界の存在を主張した。
「霊の世界はあります。ただ、その霊界との通信が、普通の人には出来ないだけのことで、特殊な能力を持ってる人、霊能者には、それが出来ます。」
 速記後の雑談には、お上さんや秋子もお酌しながら加わっていた。お上さんは尋ねた。
「霊の世界には、やはり、狐や狸みたいなものの霊も、あるのでございましょうか。」
「あります。いろいろなものの霊がありますよ。天狗の霊などは、霊能者にしばしば通信してくれます。」
 それからまた怪談となった。
 私は意外なことを発見した。それまで、怪談とか迷信とか霊界とかを軽蔑しきっていたが、実はそういうものが、アルコールと同様に私の精神を酔わせ、アルコール以上に私の精神の栄養分となりそうに思われたのだ。宗教は阿片かも知れないが、そういう規格づけられた宗教は別として、妖怪変化や悪魔の類は、私の萎靡した創造能力を鼓舞してくれそうだった。
 私は楽しく酒を飲んだ。散会してからも、新橋駅までの客の見送りは黒田と安藤とに任せ、一人居残って酒を飲んだ。
「も少し飲もうよ。今夜は面白かった。」
 お上さんと秋子を私は呼び寄せた。
「狐や狸の霊があるとしましたら、崇ったり憑いたりす
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