私語はひどく神経を刺戟するものであるが、それよりも、襖一重の隣室で、ペンの音を立て、原稿紙の音をさせるのは、更に神経を刺戟するものだとは、某氏の言である。
支那には、隣室の紙声枕に通って転々すと、表現の妙を極めた卑猥な文句があるが、全然精神的な意味に於て、隣室のペンと原稿紙との音が枕に通って眠られないとは、如何にもありそうなことである。そしてこういう不眠は、どうにもやりばのない性質のものらしく思われる。それは、秋の深夜など、窓外の木の茂みに、さらさらと、風の音とも雨の音ともつかないものを耳にして、何かしらうすら寒く心がおののくことのある、あの不安と、同じ性質のものらしい。空虚な精神の危機である。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月25日作成
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