嬉しかった。庭の真中に据えさして、仕事に疲れた眼を慰めた。径一尺余りの小さな鉢だったが、五六枚の葉をつけ、花を二つ開いていた。鉢の中の藻の間に、糸蚯蚓が沢山いたので、それを食い尽させるために、緋目高を四五匹放ったりした。
そのうちに、淡紅色の花弁が散ってゆき、葉も一二枚黒ずんで枯れていった。花の後の漏斗形の萼は、実を結ぶ様子もなく、小く萎びて立枯れてしまった。残りの葉も、まだ霜を受けない先に枯れかかった。鉢の中を覗いてみると、彎曲したこちこちの根が、土の上に痛ましく露出していた。恐らく蓮は、径一尺余りの小さな鉢の中で、充分に伸びることが出来ず、窮屈の余りに窒息しかけたのであろう。そう思うと、吾が愛するこの蓮のために、充分の泥と水とを与えてやりたくなった。
私は近くの瀬戸物屋へ出かけていって、其処にある一番大きな蓮鉢を買い求めた。径三尺ばかりの分厚なもので、田舎の広々とした蓮田には及びもつかないが、一二株の蓮の生長には充分らしかった。私はそれを日当りのよい所に据えて、庭の隅から掘り起した土を盛り、それを水にこねて、蓮を移し植えようとした。そこへ、叔父がひょっこりやって来た。漢籍や盆栽に親しんで日を送ってる叔父は、私の柄にもない仕事を見て、長い髯をなでながら笑い出した。そしてこんなことを云った。
――蓮は秋に動かすものでない。春の彼岸頃、旧根が腐って新芽が出だしたのを、逆様に移し植えるのを以て法とする。然し、凡そ花卉のうちでも、水ものは最も栽培困難としてある。素人流の育て方で、蓮の花を一つでも咲かせ得たら、それこそ園芸の天才である。
私はその天才になろうと欲した。そして叔父の意見を参考にして、蓮を移し植えるのを翌年の春まで延した。すると図らずも、意外な便宜を得た。
私の家へ、田舎から時々野菜物なんかを持って来てくれる、農家の[#「来てくれる、農家の」は底本では「来てくれる。農家の」]老人があった。その老人が、蓮を育てたいという私の志望を聞いて、蓮には都会のこんな痩せた土では駄目だから、上等の肥えた土を進上しましょう、という好意を寄せてくれた。やがてその老人が、車につんで運んで来た土は、荒川岸の泥土とかで、壁土に用いても最上等なもので、色は少し灰色がかって、ねっとりとした重みのある濃密なものだった。
私はそれに力を得た。春の彼岸になるのを待って、小さな蓮鉢をひ
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