た。保科が敏子を先にはいらせようとするのを、敏子は身を避けて、保科を先にはいらせ、ちょっと間を置いて、そっと扉を閉めました。そして敏子は、そのまま引き返して、立ち去りました。

 四月の下旬は夢のように過ぎ去りました。
 縁談の話が出ると、敏子は母へ言いました。
「だって、まだ五月五日になりませんもの。」
「どうして五月五日なんですか。」
「そうきめたこと、お母さまに言いましたでしょう。」
「いいえ、そんなこと聞きませんよ。」
 母は怪訝な面持ちでありました。けれど母の方では、五月五日のお節句のことに、前々から気を配っていました。燃料は不足だけれど、せめて家の風呂をわかして、菖蒲湯をたてようとか、粽《ちまき》はだめだとしても、せめて柏餅だけは拵えたいとか、戦争もすんだこととて、古い武者人形を少し飾ってはどうだろうかなどと、夕食のつどいに話したりすることがありました。そのお節句と敏子の五月五日とが、どういう関係なのか、母にはさっぱり見当がつきませんでした。それも当然なことで、敏子にとっても、そんな関係などは何もありませんでした。
 ただその日まで、敏子は何事も言いたがらず、誰にも逢いたがりませんでした。副島の伯母さんが来ても、ちょっと挨拶をするきりで引っこみました。友だちが来ても、素気ない待遇をしました。掃除や炊事に女中の手伝いをすることも、殆んどなくなりました。
 五月二日に、保科哲夫が訪れて来ました時、敏子は初めて長く席にいました。なんだか旧師に対する悪戯生徒のように、言葉少なにもじもじしていました。
 保科と母との話のなかで、いろいろなことが露見してきました。
 敏子が四月二十日の会合に行ってみたことを、母は初めて知りました。敏子の父が亡くなっていることを、保科は初めて知りました。五月五日すぎに敏子が旅に出る意向のことを、母は初めて知りました。
「旅に出るなんぞと、そのようなことを、ほんとに考えているのですか。」
 と母は敏子の方へ尋ねました。
 敏子は母と保科を交る代る見て、甘えるように言いました。
「ちょっと考えてみただけでしたの。けれど、だんだん本当の気持ちになってきました。ねえ、お母さま、いいでしょう、ほんの、一週間ばかりでいいんですから、行かして下さらない。」
「いったい、どこへ行くのですか。」
「田舎の町に行ってみたいんですの。市郎伯父さまのところへ泊って、山を眺めたり、雪解けの水が流れてる河を眺めたり、おとなしくしていますから、ねえ、よろしいでしょう。」
 母はなにか得心のゆかない様子でした。保科が傍らから微笑んでいました。
「それはいいですね。山を眺めたり、雪解けの水を眺めたり……敏子さんすっかり詩人になりましたね。」
 敏子は子供のようににこにこしていました。
 だが、そんな時に切りだした旅行の話は、却って容易く母の承諾を得ました。母は次第に、敏子の心が捉え難い思いに悩んでいましたので、少しく敏子を自由にしてみたらと、考えたのでした。保科も口にこそ出さないが、同じような考えらしく察せられました。
 敏子は二人にお礼を言って、快活に席を立ちました。
 敏子は自分の室にいって、膝をとんとん叩きました。もうあの晩とは、すっかり気持ちが変っていました。
 二日前のあの晩、敏子はやはり膝をとんとん叩きました。なんだか口惜しくて、じっとしておられませんでした。
 ――私は結婚を軽蔑しながら、やはり架空の結婚に憧れていたのだった。筒井さんとの縁談を楯に、あらゆる縁談を拒もうとしたのも、ただ特定の相手との結婚を避けて、架空の結婚に憧れているからだった。ソリの幻影を新たに呼び覚したのも、保科さんを愛してるからではなくて、また保科さんから愛されたからではなくて、ただ架空な愛を夢みてるからだった。もうたくさんだ。なにもかも投げ捨てよう。そしてほんとに自由になりたい。
 敏子は膝をとんとん叩きました。股の肉が痛く、手の爪が痛くなりました。それでもまだ膝を叩きました。ふと見ると、姿見の鏡中でも、も一人の彼女が、膝を叩いていました。叩くのを止めると、姿見のなかでも叩くのを止めました。じっと眺め入ると、彼女もこちらをじっと眺め入りました。びっくりして立ち上ると、彼女も立ち上りました。その時、彼女はひどく悲しそうな顔をして、やがて涙をほろりとこぼしました。頬に涙が感ぜられました。敏子はそこに突伏して泣きました。あとからあとから涙が出て来ました。そして思うさま泣いてから、坐りなおして、また膝を叩きました。
 ――私は神経衰弱じゃないかしら。
 敏子はまた膝を叩きました。股の肉がしびれてきました。けれど、姿見のなかを覗きこんでみると、もうそこには彼女はいず、まさしく自分の姿だけでした……。
 そのことが、敏子の胸をさっぱりさせました。
 ――ばかばかしい。何もかも軽蔑して、打ち捨ててしまおう。
 敏子は子供のような気持ちに還りました。そして旅行の仕度をはじめました。簡単な手廻りの品だけで充分でした。
 五月五日の朝、敏子は母にはっきり返事をしました。
「お母さま、御心配かけましたけれど、副島の伯母さまの方へは、あのお話、断って下さいませんか。どう考えても、気が進みませんのよ。」
 母はもう諦めていたというような表情をして、それでも深く溜息をつきました。
 兄が側で聞いていて、感心したように言いました。
「調子は甘ったれていて、文句はきっぱりしていて、上出来だな。」
 敏子は兄を睨んでみせました。
「お兄さまこそ、それが分ったのは上出来だわ。」
 兄は笑い、母は呆気にとられていました。
「旅行の仕度はいいのかい。」
 と兄は尋ねました。
「ええ洋子さんが、汽車の切符から何もかも、すっかり整えて下すったわ。帰りには、洋子さんと同じように、ヤマメの干したのをおみやげに持ってくるわ。」
 そして敏子は、青い空と日の光りとを仰ぎ見ました。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「人間」
   1946(昭和21)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング