いでしょう。」
「そして、俺の倉庫はどうなるのだ。俺の物貨はどうなるのだ。」
「まあ大丈夫のつもりであります。穀物の類と毛織物の類がおもなものですから……。」
「それだ。俺が買い込むつもりだったのは、鑵詰類と綿布類だった。それを、穀物と毛織物に切替えたのは、お前の仕業だな。」
「いえ、初めからそういう御註文だったのではございませんか。匪賊どもは、鑵詰は便利だから掠奪しますが、穀物は調理に手数がかかりますから、あまり沢山は持ち去りませんし、また、毛織物は本能的にきらって、綿布に執着するものだと、そういうお考えのように存じておりましたから、お考え通りに取計らいましたのです。」
「誰が考えたんだ。お前一人の考えだろう。俺が註文したのは、鑵詰類と綿布類で、外の品物ではないんだ。それが、倉庫の中には何がつまっているんだ。」
 それらの対話の模様では、すべてが矛盾してるようでした。買入れ品目が全く違っているし、匪賊への対策も全く違っていました。その違いはどうやら、朱文が独断で勝手に取計ったもののようでありました。
 張一滄がいきり立てば立つほど、朱文は落着き払って、微笑のうちに逆な返事ばかりしましたので、張一滄はもう我を取失うほどになり、憤り且つ歎きました。
「お前がそういう男だとは、俺は今日まで知らなかった。俺のところに来て七年間、七回の夏や冬は、決して短くはない。その間お前は、随分働いてくれたし、一度も俺のいいつけに背いたことはなかった。それが今度に限って、危急存亡の瀬戸際に臨んで、俺の言葉を全く無視するどころか、悉く反対なことばかり仕出来してしまった。お前は卑怯者だ、裏切り者だ、馬鹿者だ。俺は娘の幼明に対しても恥しい。婚期を延して、独りでおいたのも、お前に見所があるので、もしこの眼に間違いがなかったら、お前にめあわしてもよいと考えていたからだ。その幼明の誕生の祝いに、おう、俺の眼は開けた。もうお前のような男は、家に置いておけない。町の遊女のところへでも、行ってしまえ。匪賊の仲間にでも、はいってしまえ。出て行け。」
 張一滄がいきりたって怒鳴りつけ、上唇の髭に鼻汁を垂らしかけてるのを、朱文は静かにうち眺めながら、やはり恭しくつっ立ったまま、微笑の影さえ頬に浮べていました。それが更に癇にさわってか、張一滄は飛び上りました。
「出て行け。出て行かないか。」
 張一滄は朱文の胸を突きとばそうとしましたが、相手の平静さに気圧されたようで、ちょっとたじろいだのが、更に憤激を破裂さして、拳を振上げるなり、朱文の頬を殴りつけ、続けざまにまた二三回殴りつけました。
 朱文は少しぐらつきましたが、微笑の影のすーっと消えた緊張した顔付で、恭しく頭をさげて、そして平静な足取りで室から出て行きました。
 一座の人々も手の出しようがなく、咄嗟の出来事を見て駆け寄りましたが、それらの人々の腕の中に、張一滄はぐったりと倒れかけました。

 匪賊の襲来は急速でありました。その翌日の夕闇迫る頃、百五十名ばかりの武装隊が町を占領しました。というよりも寧ろ、町に案内されて屯ろしました。
 町の人たちは皆、家屋の奥に逃げこみ、閉じ籠っていましたが、多数の逞ましい苦力たちが、宛も友人をでも迎えるような調子で、にこにこした態度で町中をうろついていましたので、これには匪賊の方で勝手が違って、急に和らいだ気勢になってしまいました。朱文と賊の首領との間に、何か連絡があったのだとも、一説では伝えられています。
 そうして、匪賊たちは苦力たちに話しかけ、苦力たちの方でも匪賊たちに話しかけました。
 そして河岸の広場に、互にまじり合って集り、火が焚かれ、豚や鶏が灸られ、酒甕の口が開かれ、賑かな夜宴が、寒夜野天の下で始まりました。苦力たちがみな、腕に小さな青布をつけているのが、何か底気味悪い感じを匪賊たちに与えたようでもありました。彼等はいわるるままに導かれて、町家には殆んど乱暴をせずに終りました。夜遅く、その夜宴を垣間見に、起き出してきた町人さえありました。
 とはいえ、この事件は、町にとっては何よりも大きな衝撃だったのであります。町中がその一夜、眠りもせず戸を閉めきって、息をひそめていました。
 そしてまだ未明の頃、河の面がほんのりと白んできますと、匪賊たちを満載した数隻の荷船が、苦力たちに漕がれて、揚子江を対岸の荒蕪地へと渡りました。一隻の船には、酒甕や綿布類や鑵詰類や若干の金銭が積まれていました。
 それらの荷船が、空になって戻って来ます頃には、夜はもう明け放れて、町人たちは河岸に駆け出し、漕ぎ手の苦力たちを歓呼して迎えました。
 匪賊たちが進路を対岸へ取ったのも、討伐隊の待伏せを恐れた故もありましょうが、朱文の意見に従ったからだという説もあります。
 斯くして、町は僅かな被害だけで難を免れました。
 ただ、茲に特記しておきたい一事は、張家の倉庫の前に、二名の武装匪賊の死体が横たわっていたことであります。鋭利な刃物で顔面や胸部を抉られて、血に染んで倒れていました。そしてその銃と弾薬だけは誰かに奪われて、どこにも見出されませんでした。死体はすぐさま、ひそかに町外れの野原に埋められてしまいましたが、そのことがいつしか町人たちの間に拡まって、奇怪な印象を与えることになりました。
 それはとにかく、町にとっての大事件は、朱文を遙か高いところへ持上げ、彼に英雄めいた風格を与えることとなりました。彼の姿を探し求める眼差が、町の至る所に光っていました。
 朱文はそれを避けてか、青布の苦力たちをねぎらってから、張家の小房に閉じ籠っていましたが、その日の夜、ひそかに外出の仕度をしたところを、張一滄につかまりました。
 張一滄はひどく面窶れがして、その肥え太った身体は、骨ぬきのぶよぶよの肉ばかりのようでありました。上唇の髭がしょんぼりと垂れて、頬のへんにぴくぴくした震えが見えていました。
 彼は朱文の小房の外に、だいぶ長い間佇んでいたらしく、朱文が外に踏み出すや否や、ひどく慌てて、眼をしばたたき、一足あとに退り、そのままそこに跪かんばかりの様子で、急に両手を差出しました。
「おう朱文、待ってくれ、待ってくれ。何処にも行かないでくれ。」
 朱文はいつもの通りの冷静な態度で、恭しくお辞儀をしました。
「あなたにお目にかかりたいと思っておりました。」
「ああそうか、それはよかった。私もお前に逢いたいと思ったが、何しろあの騒ぎで、それに……とんでもない思い違いをしたり……なあ勘弁してくれや。」
 朱文は彼の手を執って、そこの横手の腰掛に彼を坐らせ、自分は慇懃にその前に直立しました。
「なあ朱文、もう何にもいわないでくれ。」と張一滄は息をついていいました。「みな私の思い違いだった。お前の考えが正しかった。お蔭で町中が助かったよ。」
「私はただおいいつけ通りにしたつもりでございますが……。」
「いいつけ……いやいや、もういわないでくれ。まったく……お前は偉い男だ。私の眼に狂いはなかった。町でも大変な評判だ。何でも望み通りのことをしてあげよう。町を救った神さまも同様だからな。娘の幼明もあげよう。何でもあげよう。望み通りのことをしてあげるよ。」
「本当でございますか。」
「ああ、誓って本当だ。」
「それでは、私に一つ望みのものがございます。お嬢さんなどは、私の妻には勿体ないから、お断り致しますが、あの……楠を、私に下さいませんでしょうか。」
「え、楠、珍らしい望みものだの。よいとも、お前が蓑虫を退治てくれたあの楠、あげるとも。だが、何にするんだね。」
「ただお貰い申しておけば、それでよろしいのです。あの楠が元気に茂ってる限りは、永久に私の思い出になります。」
「永久に……思い出に……。」
 その言葉にひっかかって、張一滄が考えこんでいますひまに、朱文は急に頭を下げて、ちょっと外出の急用があるのでまた後刻に……といいすて、身を飜えして出かけてしまいました。
 張一滄はそこに暫くぼんやりしていました。すると、幼明が駆けてきて、今そこで朱文に逢ったが、いつになく大変取急いでる様子だったと、眼をまるくしていました。
「お互に心に傷を受けないでよかった…… 楠のことをお頼みします……とそうあの人はいいましたが、何のことか私にはよく分りませんわ。」
 張一滄はその朱文の言葉を幼明に繰返さして、じっと考えこみましてから、急に騒ぎだしました。朱文は何処かへ行ってしまうのかも知れない、早く引止めなければいけないと、召使たちを四方へ走らせました。
 けれども、朱文の行方をつきとめることは出来ませんでした。彼が愛してるとかいう妓女の家へも尋ねさせましたが、彼もその女もいませんとのことでした。夜遅くなって、召使たちはすごすごと四方から戻ってきました。
 実は、その頃、朱文はその愛する妓女の彩紅の奥室で、一切の人を避けて、酒を飲んでいました。
 彩紅は二十三歳の、体躯も肉附も豊かな、明朗な美人で、一点、清澄な瞳の奥に深い悲しみを宿したようなところが、時あって仄見えるのでありました。今夜はどういうのか、その一点の悲しみが、刷毛ではいたように拡がって、彼女を淡く包んでるようでした。彼女は空色の服をまとって、長椅子の上に、朱文の腕によりかかっていました。
 室の片隅の衣裳箪笥の前の小卓には、脱ぎすてられたままのものらしく、雲竜の華麗な刺繍[#「刺繍」は底本では「剌繍」]のある衣裳や、艶やかな銀狐の毛皮の襟巻や、その他の絹類が投げ出されていました。そしてその箪笥の横に、二挺の銃が立てかけてあるのが、異様に目立っていました。
 二人の前の卓上には、いろいろな色の紙を貼りつめた硝子の瓶や、くすんだ色の陶器の瓶などが並んでいて、グラスが四つほど、とろりとした緑色の液や透明の液を、一杯湛えていました。
 彩紅はそのグラスの一つを一息に飲み干して、いいました。
「いつ、お発ちになるの。」
「さあ、いつでもいいが……。」と朱文は言葉を濁しました。
「でも、夜ね。」
「なぜ。」
「あれがあるから。」と彩紅は二挺の銃の方を視線で指しました。
 その時、朱文はふいに彩紅の方へ振向いて、じっとその顔を見ながらいいました。
「どう、も一度考えなおして見ないかい。」
「なにをなの。」
「僕と一緒に行ってしまうということだよ。」
「だめ。此処でならいいけれど、どうせ私は、あなたの邪魔になるばかりだこと、はっきり分ってるわ。此処で…… もう五年にもなるのね。あたし、五年の間に、一生を生きてしまったと思えば、それでいいの。」
「然し、僕が発ってしまった後は、どうするつもりだい。」
「どうするって、もう一生を生きてしまったんですもの。」
「だってまだ君は……。」
「もう生きてしまったの。」
 ぽつりといって、彩紅は朱文の胸に顔を埋めました。
 朱文はじっと宙に視線を据えていましたが、ふいに、その顔から血の気が引いて、崇高ともいえるほどの蒼ざめた顔になりました。
 彼は静かにいいました。
「僕は、どうあっても、君を連れて行くよ。」
 彩紅は黙っていました。
「君はさっき、僕が此処から出発するのは、張幼明さんをもてあましたか、あの楠がもう嫌になったか、どちらかだろうといったね。だが、僕自身にもよく分らなかったが、そうではないんだ。張幼明さんのことは、父親の意向がどうであろうと、僕たち当人同志の間が、なんでもないのだから、問題にはならない。ただ楠のことは、本当に僕の心にかかるものなんだが、あれが嫌いになったんではないよ。ただなんとなく、あれを持てあますような気持になってきただけだ。あの大きい樹を見ていると、胸に抱いていると、こちらが、自由に身動きできないような気持になってくる。あれを張一滄さんから今日貰い受けてしまったのも、打捨てようとどうしようとこちらの勝手だと、まあ自分に自由がほしかったんだね。考えてみると、僕はまだ弱かった。ところが、君は楠とは違うんだ。君なら、生涯荷って歩いても、胸に抱いて歩いても、大丈夫だとの自信がもてる。僕にはそれくらいの力はあるよ。だから、ど
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