のうち二三時間だけかかるきりで、大抵はぶらぶら遊んでいたようであります。殊に港の船着場に、彼の姿がよく見かけられました。
 大河を上下する汽船や帆船が、種々の貨物をこの港に降してゆきました。赤濁りした河水が満々と流れているのを見るだけでも、なかなか面白いものですが、汽船や帆船の航行を見るのは、更に面白いものですし、それらの船から遠い土地の荷物が降されるのを見るのは、何より面白いものです。いつも多少の見物人がありました。その中に交って、背の高い朱文が、人一倍長そうに思われる両腕を、手先だけ袖口につっこんで腹のところで輪になし、ぼんやり佇んでいる姿は、妙に人目につきました。それがまた他の見物人を誘って、いつも、彼のいるところには人立がふえました。
 船から河岸へ荷役のあるたびごとに、朱文は大抵その近くに出て来ましたし、背が高く腕が長そうだというただそれだけで、妙に人目につくその姿が、だんだん見馴れられて珍らしくもなくなります頃、もう既に朱文のことは、荷役の苦力たちには固より、寄港する船の水夫たちにまで、よく知られてしまっていました。殊に、彼が奉公してる張一滄は、港に商館や倉庫を持っていましたので、その信用が彼の上にまで拡ったことも見逃してはなりません。
 彼はただぼんやり港の荷役の光景を眺めてるだけのようでありましたが、一年ばかりたつうちには、その間に徐々にではありましょうが、荷役人夫の組合を拵えてしまって、その元締の地位にしっかと腰を下していたのであります。殊に張家の荷役は全く彼の手中に握られていました。後になってこのことに気付いて喫驚した人も少くありません。
 彼が率いていた苦力人夫は、腕に青色の布片を縫いつけていました。大体苦力たちの服が、きたなく褪せてはいては青っぽいものなので、その青色の布片は初めは殆んど人目につきませんでしたが、いつしか船員たちにも町の商人たちにも知れ渡り、その布片が次第に数をますにつれて、それがないと幅も利かないし仕事も少いというような状態になってゆきました。
 そして数年のうちに、彼は張家の腹心の番頭格になり、また町の労働者間に確固たる地位を築きましたが、彼自身は、背が高いのと腕が長そうだという感じを与えるだけで、一向人目につかない粗服をまとい、どんな用件も至極簡単な言葉ですまし、無駄口は殆んど利かず、喧嘩口論などは全くせず、そして始終に
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング