思うのだが、その勇気がなく、別に気恥しいことも後ろ暗いこともあるわけではないが、彼はそこの電柱にもたれて立止り、そのままずるずると腰をすべらして、屈みこんでしまったのである。水の底にでも沈んでゆくような感じだった。しいんとなる……。そして何だか大きな声がしたので、眼を上げると、あんまりよく知りすぎ馴れすぎてるキミ子の顔が、その温い息で、上から蔽いかぶさろうとしてるようだった。彼は突然立上って、さようならと、自分で諾くように軽く会釈をして、茫然と佇んでる彼女の手を取り、その街路のまんなかで、二三度強く打振って、それから、通りがかりの自動車にとび乗ったのである。
 そして彼は今、書斎にのんびりと寝ころんで、電燈の光の下で、ばらばらの紙片を、珍らしそうに調べるのであった。置戸棚の抽出の一つに、折にふれて物を書きとめた紙片が投げこまれていて、もうそれが随分たまってるのを、何ということもなく、取出してみたのである。短い感想や、詩みたいなものの断片や、単なる覚え書や、いろんな符諜や……よくもまあこの男は、役にも立たないものを書き散らしたものだった。全く訳の分らないものもあった。その代り、人前に出せないような秘密なものは一つもなかった。世間体を考慮する……というより寧ろ、本能的に体面を守って、怪しげなことは一切闇に葬ったのに違いなかった。だが第一、怪しげなことがこの男に何かあったろうか。ごく平凡な好人物で、怠惰が唯一の美徳であって、そのアナーキズム的な思想も、常識的空想の一つの現われに過ぎなかったのではなかろうか。外からの働きかけを適宜に受け容れるだけで、自分から動きだすことのなかったらしいこの男に、怪しげなことのないのは、当然だった。それでも、彼には――中江には――その書き散らしの紙片がへんに珍らしく、好奇心がもてるのだった。軽い微笑さえ彼の顔に浮んでいた。その反故《ほご》同然な紙片をめくってゆくうちに、ふと、もしこの男が死んでしまったら、これらの反故も何かの価値をもつかも知れない、などと考えるのだった。大抵の者は、何かしらに働いてるものは、死んだあとそれ相当の空虚を世に残すのであるが、この男は恐らく何の空虚も残さないだろうから、それだけにこれらの反故がこの男の存在に代って貴重なものとなるかも知れない、などと彼は考えるのだった。そしてそういう考えが彼に淡い慰安を齎すのだった。彼
前へ 次へ
全22ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング