て、次の映像がはっきりしてくるに従って前の映像は消えていくのだった。キミ子が話し終ると、彼はただ黙って首肯《うなず》いた。
 キミ子は口を噤んで、中江の様子を窺っていたが、何等か熱烈な意志の動きが浮んでくる筈の彼の顔は、いつまでも不気味に静まり返り、はっきりとした意見を吐露する筈の彼の口は、軽く半ば開いて、白い歯並をみせているきりだった。むなしい沈黙が続いた。キミ子は突然叫んだ。
「先生!」
 中江の眼が彼女の方に向いて、彼女はその中を見入ってるうちに、いつしか涙ぐんだ、それから急にそこにつっ伏して泣いた。
「先生は……あたし分っているわ……先生は、恋をしていらっしゃるんでしょう。うちあけて……うち明けて下さらなくちゃいや。」
 中江はその肩に手をやっただけで、茫然と眺めていた。キミ子は愛のうちに感傷的に涙ぐむことはあったが、こんな時に、こんな泣き方をするとは、不思議だった。どうしたのかしらと中江は考えるのだった。自分の方がどうかしたのかしらとも考えるのだった。
 キミ子は泣きやんで、顔をあげた。
「先生は……不幸な恋を、していらっしゃるんでしょう。」
 涙をためてるその大きな眼を見ているうちに、中江ははっきりしてきた。
「そうだ、君はなぜ、自由に僕の家に来てくれないんですか。僕たちは、どうしてこう卑屈なんだろう……。」
 彼女の眼からすーっと涙がひいて、黒目が底深く光っていた。そして彼女は彼の肩に縋りついて、ほんとう、それほんとう? と尋ねかけたのだった。卑屈なのは先生の方で、自分はどうなろうと構わないけど、それでも、先生には、恋愛なんかよりも、もっと大きな誇りがあるべきだし、もっと大きな仕事がある筈だ、と彼女は云うのだった。社会的な動き方をしてる者は、個人的な問題に煩わされてはいけないので、そういう意味から、先生はあくまで自由でなければいけないのだ、と彼女は説くのだった。先生にもし不幸な恋でもあるなら、そんなものは忘れてしまわなければいけないし、自分たちはあんまり弱かったから、これから強く生きる覚悟をしなければいけない、と彼女は云うのだった。そうした彼女は、社会運動に関係しながら、バーの女給をしたり、今では啓文社の校正部に勤めたりして、一人で男々しく働いてる彼女だったが、その彼女がいつしか自分で自分の言葉に涙ぐんで、中江の肩により縋り、じっと畳の上を見つめて、唇
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