そういう顔の真中に、小鼻のよく目立つ細い鼻が通っていた。……私はそれらに皆見覚えがあった。そして其処に、親しい千代子の姿がありありと浮んできた。然しそれは、私の幻とは全く異っていた。どう異っているかを私は指摘することが出来なかった。全体の気持ちが全く異っていたのである。そして私の彼女は、理想の女は、再び空漠たる所へ消え失せてしまった。私の手にはありし日の千代子の実際の姿だけが残った。
「どうしたんだい、大変ぼんやりしてるじゃないか。」
 そういう叔父の言葉に、私は初めて我に返った。そして何を云ってるのか自分でもよく分らない言葉を、叔父と叔母とに交したまま、私は急いで辞し去ってしまった。
 凡ては惑わしだったのだ。然し私は、この幻滅に対してどう身を処していいか分らなかった。千代子は消え失せたけれども、「理想の女」は残存していた。そして、それは一つの焦点を失ったがために、一の像《イメージ》でなくなって影となったがために、私の前後左右至る処につっ立ってるような気がした。街路の曲り角、並木の下、電柱の横、奥まった扉口、凡そ人が身を寄せ得る処ならどんな処にでもじっと佇んでるような気がした。而も私が実際眼をやると、其処には誰も居なかった。理想の女に似もつかぬ幾多の女性が、あちらこちらに往き来していた。……然し、私にとっては、彼女等は凡て仮象に過ぎなかったのだ。私にとって真に現実なのは、眼に見えない「理想の女」のみだった。眼には見えないが、何処かに、すぐ近くに、立っているような気がした。
 なるべく影の多い奥まった所を、誰かが――彼女が立っていそうな所を、私は覗き込みながら歩き続けた。
「うううう、」と何かが唸るような声がした。私は喫驚して立ち止った。私は或る神社の境内にはいって、ぼんやり歩いてるのであった。声に驚いて眼を挙げると、紺絣を着た十六七の男が赤坊を負《おぶ》って、私の前に立っていた。彼はまた「うううう、」と唸りながら、私の手を指し示した。見ると私の手には、火のついた紙巻煙草があった。これだなと私は思った。そして袂から煙草を一本取り出して、若者に与えた。彼はそれを黙って受取ったが、また「うううう、」と唸った。私はその顔を見つめた。彼はきょとんとした眼付で、私の手の煙草を見つめながら、変に先の曲った指で、煙草の火を指し示した。私は煙草の火を差出そうとしたが、思い直して、マ
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