である。些細なことから私達は口論をすることがよくあった。二三日後まで反抗的な沈黙を守るほど激しい口論も、何度かくり返されていた。所が此度そういうことが起ったら、もう掴み合いに終るの外はないように思われた。幾度も抑えに抑えられた暴力が、既に飛び出した後だからである。而もそういう暴力の結果はどうであるか? 責任が私一人にかかってくるのみである。彼女は「女である」という便利な楯を持っている。一歩も譲らないで私につっかかって来たこと、不条理に苛ら立ってきたこと、そういう微細な――実は最も重大な――問題は、「殴られた」という事実の背後に影を潜めてしまう。そして「殴った」という責任が全部私の上にのしかかってくる。喧嘩の瞬間には、男も女も対等に――否多くは女の方がより攻勢的に――相対抗するものであるということを是認しても、殴る殴られるという結果の差は、溯って男を非難しがちである。動機の如何に拘らず、強い方が不当だと常に結論されがちである。私はそういう不条理な損害を受けたくない、そういう危い境地へ踏み込みたくない。それには、彼女に折れ屈むことを教えて置かなければいけない。彼女の心を挫いて置かなければいけない。
憤激の余り私は右のように考えた。然しこの決心は如何に根の浅いものであったか! 私は頭で到達した帰結に満足して、それを胸の奥に移し植えるだけの労を取らなかったのである。
二日間、私達は互に口を利かなかった。その間私は、一方では秀子に対する憤りを無理に自ら煽り立てながら、一方では秀子が我を折ってくるのを待ちあぐんでいた。
二日目の夕方――その日は冷たい雨が午後から降り出していた――私は、まだ電灯もつかないのに、秀子が縁側の雨戸を閉めているのを見た。室の中が真暗になりそうだった。
「もう少し開けとおき!」と私は尖り声で云った。
「みさ[#「みさ」に傍点]子が風邪をひくじゃありませんか。暗くても温い方がよござんす。」と彼女は答えた。
私が枕を投って壊した障子の硝子は、まだそのままになっていた。私への見せしめか知らないが、彼女は新たに硝子屋へ頼むこともせず、または紙をはって一時の間に合わせることもしなかった。ぽかりと口を開いてる四角な穴からは、冷かな空気が流れ込んでくるようだった。
「硝子をはめさしたらいいじゃないか。」と私は云ってやった。
秀子は何とも答えないで、雨戸を閉め
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