た。浮々した気持が何処までも私を運んでゆくかと思うと、急に真暗な穴の底へ陥ったような心地になった。そういうどん底の気分の時には、私はよく長谷川を訪問した。長谷川は近頃文壇に名を出した新進作家で、妹の道子も将来女流作家となる筈――本人の心では――であった。家の中の空気が何処となく爽かでまた落付いていた。彼等二人の話を聞いていると、私の心へも清澄な光りが射してきた。自分も勉強したような気が起ってきた。そしてすぐに家へ帰った。然し、家の閾を跨ぐと、私の心はまた陰鬱になるのであった。
或る日――その午后に私はまた秀子と喧嘩をした。初めは何でもないことだったが、いつもとはだいぶ調子が異っていた。みさ[#「みさ」に傍点]子が少し風邪の気味だった。熱を測ると七度一分あった。「大丈夫でしょうか、お医者に診せないで、」と秀子は云った。「七度二分までは発熱と云えないそうじゃないか、」と私は答えた。暫くすると、「大丈夫でしょうか、」と秀子はまた云った。「大丈夫だ、」と私は事もなげに答えた。そういう問答の後に、私は縁側の障子を開け放って、南を一杯受けた日向に寝転んだ。彼女は私の不注意を責めた。私はうっかり一二言答え返した。彼女はすぐにつっ込んできた、「子供の風邪がひどくなったら、あなたが責任を負って下さるのね!」私は一寸あわてた。「でたらめなことを云うな、」と投げやりの調子で答えた。彼女は私の顔をじっと見た。「あなたは、この頃ちっとも子供を可愛がりなさらないのね、」と彼女は云った。云われてみると多少は当っていた。子供の側にくっついてることが、私には次第に少くなっていたのだ。私は話の方向を変えるために、別のことを云った。「お前は、ただ子供をだけ愛してる。それが本当の愛かも知れないよ。然し僕は……子供を愛する時は、お前をも愛してる時なんだ。」云い方が悪かったのだ。彼女はすぐに結論して私に迫った。「では、あなたはこの頃私を愛して下さらないのね。」彼女の云う所は、いつになく論理正しく鋭利だった。私はたじたじとなった。癪だった。「お前はどうだ、」と反問してやった。「私のことを云ってるのではありません、」と彼女は私を撃退した。「お前は子供だけ育てれば、それでいいと思ってるんだろう、」と私は云った。「あなたは私に子供だけを与えておけば、それでいいと思っていらっしゃるんでしょう、」と彼女は云った。議論は
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